2011年6月30日木曜日

先生。

研究所から大学に移って大きく変わったことの一つが、業者の方に「先生」呼ばわりされること。
別に私が老け顔で教員に見えるとかそういうわけではない。修士一年の子も「先生」って呼ばれてるし。
まあ確かに業者の方としても、「この人は教員だから『先生』」、「あの人は学生だから『さん』」と気遣うのは大変なので、「先生」に統一しておけば間違いないってことなんだろうけど。
でも研究所では教員も教授以外全員「さん」づけで呼ばれてたけどなぁ。
大学というより医学部だからなのかもな。教員じゃなくてお医者様と言う意味の「先生」なのかも。

いずれにせよ私は教員でも医者でもないので、「先生」と呼ばれるのはむずがゆい。

2011年6月26日日曜日

8月29日 サマルカンド観光

8時起床、ホテルで朝食。9時ホテルを出発。

本日最初の目的地はビビハニム・モスク(入場料 3800 cym)。中央アジア最大のモスクというだけあって、その壮麗な様に圧倒される。

ビビハニムとはティムール最愛の妃の名前。絶世の美女だったらしい。インド遠征から凱旋するティムールのために、ビビハニムが贈ったのがこのモスクだそうな。伝説ではモスクの建設を担った当代随一のイケメン&カリスマ建築家がティムールの妻たるビビハニムに横恋慕してしまう。ビビハニムは彼の求愛を何度も拒絶するも、あまりのしつこさに根負けし、彼女の頬にくちづけすることをイケメン建築家に許してしまう。そのキスの痕が痣となり、彼女の頬に残る。

インドから凱旋帰国したティムールは、寵妃に贈られた荘厳なモスクに感動し、礼を述べにビビハニムの元へ。しかし久々に会った妻の頬に痣を見つけ、ティムールは最愛の女の裏切りを知り、怒り狂う。すぐさま間男のイケメン建築家は処刑され、ビビハニムは彼女の夫へのプレゼントであるモスクのミナレットから突き落とされたのだそうな。ビビハニムかわいそう。イケメン間男あほすぎる。ほっぺにちゅーまではいいとして、吸引しちゃいかんだろう。でもまああれか。彼女が自分のものにならないなら、彼女に自分の愛の証を刻印して、共に死ぬことで一緒になろう、という純愛の狂気ともとれるな。

中庭の露店でアクセサリーを物色。おみやげにちょうどよさそうなビーズの腕輪があったので、売り子の少年に声をかける。バトル開始。

「いくらだ?」と訊くと「2ドルだ。」と言う。

500 cym (言い値の約5分の一)なら買う。」と言うと「冗談じゃない、売れるわけない。」と言う。そこから複数個買うからまけろだの、cymとドル細かく変換してちょっとずつ値を下げさせるだのして頑張ってると、裏から顔の濃いおっさんが現れる。どうやらこの露店のオーナーであり、少年の父親であるらしい。おっさんはこう言った。

「おおマダム、この腕輪はね、さっきのアメリカ人観光客には15ドルで売ったんだ。でもジャパニーズはMy friend だから、12ドルで売ってあげるんだよ。」

よく言うわ~~~!!!

で、結局11ドルで3個買った。善戦したと思う。

まあ1ドルだろうが2ドルだろうがどっちだっていいんだけどさ。たとえ一円未満のところでも争う、というのが楽しいよね。言葉と心の駆け引きと言うかね。それに「日本人はぼれる」という奴らの先入観を少しでも払拭しておくのが後の日本人観光客のためにも重要だと思うしね。まぁ1ドルでもぼられてるかもしれんけどね。

お次はビビハニム・モスクの向かいにあるビビハニム廟。不幸な最期を遂げたビビハニム妃を祀ってある。豪華絢爛なビビハニム・モスクと異なり、こちらは質素で素朴な雰囲気。でも室内の壁の幾何学模様はやはり見事。ビビハニムのものと思われる柩が安置されている。周辺の喧騒とは一線を画していて、とても静か。

11時に近くのシャブ・バザールへ行く。ここは大きなバザールで、生鮮食品や香辛料、洋服、靴、アクセサリー、おもちゃなどなんでも売っている。しばし個人行動。

立ち並ぶ服屋ゾーンのうちの一軒で、素敵な碧い長衣を発見。

ウズベキスタンはイスラム教が主流で、女性はくるぶしまであるスリムなワンピース様の長衣か、同じようなラインの上衣に同じ布のパンツを穿いている。といっても戒律はかなりゆるいのか、半袖で腕をむき出しにしているし、頭部にも何もつけていない。稀におばちゃんなどがスカーフを頭に巻いている程度。この長衣がなかなかエキゾチックで素敵なので、欲しいと思ってたんだよね。

というわけでさっそく値段交渉。店のおばちゃんの言い値は25ドル。こちらの初期値は10ドル。バトル開始。「このスカーフと一緒に12ドル出すから」と口説いてみたり、帰るそぶりをしてみたりで20ドルを割るところまでいったが、それ以上はなかなか難しい。素敵な長衣だけど、20ドルはちょっと高いので諦めて店を出る。

その後旅仲間集合。合流後も服屋をちらちら見つつバザールをぶらぶらするが、やっぱりさっきの碧い長衣を上回る品物は無い。きっとあれは運命の出会いだったんだ。あれを手に入れなければ絶対後悔する。

ということで、みんなにつきあってもらってさっきの服屋へ。店のおばちゃん、さっきのジャパニーズのねーちゃんが、今度は男を伴ってやってきたということで、「この客買う気だ!」と俄然やる気を出し始める。第2ラウンド開始。

いったん本当に店を出てしまったのが効いたのか、値段がさらに下がる。最後にcymをドルに換算する際ちゃっかり端数を切り捨てて、14ドルでお買い上げ。やったね!

お昼ごはんにトマト、リンゴ、桃を買い(二つずつ、全部で1000 cym)、ミネラルウォーターで洗ってその場で食べる。

腹ごしらえもすんで、13時シャーヒズィンダ廟群へ。ここはティムール縁の人々が祀られた霊廟が立ち並ぶサマルカンド有数の聖地。一つ一つの廟が個性的で、美しくて、とても興味深かった。


16時頃にグリ・アミール廟へ(入場料 3800 cym)。ティムールとその息子たちが眠る廟らしい。廟内で公開してある柩はレプリカだそうだが、地下にはレプリカと同じ並びで本当の柩が安置されているらしい。

帰りにコーラと水を購入(1600 cym)。17時半に帰宅。

19時にホテルの夕食。今日のメニューはラグマン。他の日本人バックパッカーと歓談した。


今日の支出:32ドル

2011年6月25日土曜日

8月28日 ブハラからサマルカンドへ

8時起床。まだのどが痛むが、熱は下がったようだ。9時にチェックアウト(30ドル)。オリムにはすごく良くしてもらったので、別れるのが名残惜しい。

ラビハウズでショルパを食べる(5000 cym)。タクシーでバスターミナルへ(3000 cym)。乗り合いタクシーでサマルカンドに出発。

15時回る前にサマルカンド到着。

古代からシルクロードの中心都市として栄えたサマルカンド。13世紀チンギスハーンの侵略により灰燼に帰したが、14世紀ティムールが西トルキスタンを制覇し、サマルカンドを壮麗な「青の都」へと復興させた。ティムール帝国は15世紀の最後の年に滅びるが、サマルカンドはソ連時代の1930年までウズベキスタンの首都だった。

有名なティムール像のところでタクシーを下ろしてもらう(44000 cym)。近くの店でシャシリクを食べる(10000 cym)。

17時ホテルバハディールにチェックイン。ここでは他の日本人のバックパックグループもいた。日本人御用達らしい。

18時、レギスタン広場を散策。ここは三つのメドレセが向かい合うようにして建てられている。「ばかの一つ覚えみたいにメドレセばっかり建てやがって」なんてふざけて話していたが、ひとつひとつ個性的な建造物で興味深い。それでいて見事に調和している様に圧倒される。まさに青の都。

ウルグベク・メドレセ

シェルドル・メドレセ

入り口のアーチに人面や動物が描かれているのが特徴。この人面はCym紙幣のデザインにもなっている。偶像崇拝がご法度のイスラム国家においてあえて人面を描いたのは、戒律をも破る権力を時の支配者が示したかったため、と言われている。しかしその命を受けた建築家が責任を取って自殺した、と言う伝説もある。

ティラカリ・メドレセ

ドームの内側から見る、金貼りの天井の精緻な幾何学模様がすごい。

ウズベク・メドレセの警備員に袖の下(6000 cym)を渡してミナレットに登る。夕闇に沈んでいくサマルカンドが美しい。

19時にホテルに戻り、夕食。ここは朝だけでなく夜も食べられるので良い。おいしいウズベキスタンの家庭料理。

今日の支出:56ドル

2011年6月23日木曜日

8月27日 ブハラ観光(2)

のど痛い。熱っぽい。風邪引いた。

7時半起床。9時にホテルを出、ラビハウズでフライドラグマンを食べる(2300 cym)。

ぶらぶら歩いてサーマーニ公園内のイスマイール・サーマーニ廟へ。これは892年から943年にかけて造られた、中央アジアにおける最古のイスラム建築なのだそうだ。

コルホーズ・バザールに出てリンゴを買い、それをミネラルウォーターで洗って食べる。

バザールの近くのバスターミナルからタクシー(2000 cym)に乗ってチャル・バクルへ。

チャル・バクルは広大な墓地の遺跡。ブハラ中心部の喧騒から遠く離れ、民家もまばらな草原に忽然と現れる。入館料がいるようだが、正規の入り口ではないところから迷い込んでしまったらしく、金を払いそびれた。チャル・バクルは「4人のバクル氏」という意味らしく、この墓地の奥に彼らのものと言われる4つのおおきな柩があった。青いタイルで美しい装飾がなされていた。

チャル・バクルを出ると運よくコルホーズ・バザール行きのバスに遭遇する。バザールに戻り、今度は別のタクシーでストライマヒ・ホサ宮殿へ。

ストライマヒ・ホサ宮殿とは、「月と星の宮殿」という意味らしい。ちょうど結婚式をやっていた。ブハラ・ハーン国最後のハーン、アリム・ハーンが建設させ、1911年に完成した。ロシアの建築家が手がけたというだけあって、ロシア風というか、ヨーロッパ風の佇まい。宮殿内は博物館になっており、西洋の品物や、中国の磁器、日本の陶器なども展示されていた。アリム・ハーンの肖像画が、どう見ても麻原焼香だった。

宮殿の外に出てお庭を散策。30人の女性が住んでいたというハーレムもあり、その前には長方形のプールがあった。このプールではかつてハーンの妃たちが裸で泳ぎ、それをハーンはハーレムのテラスから眺め、今夜の伽と決めた女性にリンゴを投げたのだという。なんというアラビアンナイト。それにしても30人か……日替わりで全員と寝るのに一ヶ月かかるわけだな。

そのテラスは今ではちょっとした喫茶店になっており、そこでファンタ・オレンジを飲んだ。

バスでブハラの中心部に戻るも(300 cym)妙なところで降ろされ、若干迷う。ベッラ・イタリアというイタリア料理の店を発見し、それが「地球の歩き方」のブハラの地図内にも記載されていたことから、なんとかホテルに戻れた。

またオリムにメロンを切ってもらい、部屋で食べる。冷えててとてもおいしい。

疲れのせいで体調が悪化し、夕方以降寝る。

今日の支出:9ドル

2011年6月22日水曜日

8月26日 ブハラ観光(1)

7時半起床、洗濯など。9時にホテルを出てブハラ観光。

タキ・サラファン

タキ・テルパクフルシャン

タキは丸屋根で覆われたバザールのこと。上から見ると半球が規則正しくもこもこ配列している感じ。

タキ・ザルガラン

ミル・アラブ・メドレセ

カラーン・モスク

カラーン・モスクの横にあるカラーン・ミナレットに登る(4000 cym)。このミナレットはヒヴァのもののように彩色されているわけではなく、代わりに日干し煉瓦を組み合わせた複雑な幾何学模様をしている。

11時、チャシマイ・ミロブにて昼食(8800 cym)。ミル・アラブ・メドレセ、カラーン・モスク、カラーン・ミナレットを一望できる素敵なロケーション。

12時、アルク城を見学(5200 cym)。邪智暴虐のハーンが圧制を揮ったという城の跡で、今は博物館になっている。大学生のバイトらしい兄ちゃんが城壁の上へ案内してくれる(4000 cym)。ここから見下ろすブハラの町並みは美しかった。

14時ホテルに戻る。洗濯物を干すのに難儀していたら、オリムがひなたに案内してくれた。彼はいい人だ。

少し休んで15時半に再びホテルを出、うろうろ。今度はラビハウズの東側を散策。チャル・ミナルを観る。

屋台でメロンを買う(1100 cym)。

タキ・サラファンやタキ・テルパクフルシャンでお土産を物色するも、値が下がらなかったので断念。

ホテルに帰ろうと路地に入ると、アクセサリー売りのお兄さんに

「コンニチハ」

と話しかけられる。彼は日本語を勉強中なのだそうだ。

17時半ホテルに着き、昼寝。

20時に、昼と同じチャシマイ・ミロブにて夕食。牛肉・きゅうり・パクチー・ピーマン・たまねぎの入った炒め物がとてもおいしかった。目の前に佇むミル・アラブ・メドレセ、カラーン・モスク、カラーン・ミナレットがライトアップされていてキレイだった。

22時帰宅。シャワーを浴びる。さっき買ったメロンを食べるためにオリムに包丁を借りに行くと、「僕がカットして持っていくから部屋で待ってなよ。」と言われた。さらに「今日食べない分は冷蔵庫に入れておくよ。もっと欲しかったら声かけて。」と。なんて親切なんだオリム。

ほどなくしてオリムがお皿にメロンをのっけて部屋まで届けてくれた。すごくおいしかった。

今日の支出:21ドル

2011年6月21日火曜日

8月25日 ウルゲンチからブハラへ

7時半起床。ホテルで朝食をとり、8時半出発。バスターミナルへ。しかしながら、いつバスが来るのかわからない。毎度おなじみ「タクシ?タクシ?」と群がるドライバーをやり過ごし、ベンチに座って気長に待つことにする。と、ここにも新手のドライバーが現る。

「どこまで行くんだ?」「ブハラだ。」「乗ってけよ。」「バスで行くから結構だ。」「まあ話を聞けよ、一人15ドルで乗せてやる。」「え!!」

これ、タクシーにしてはかなり格安。他のドライバーは普通にその3倍の額を吹っかけてくる。どうやらこの運ちゃん、ブハラに私用があるらしく、ついでに客でも乗っけて小金を稼ごうという腹らしい。我々にとってはえらくラッキー。

というわけでほとんど時間のロスもなく、9時半に出発。少し風変わりなおっさんも客として同乗。このおっさん、なぜかアムダリヤ川の橋の真ん中で降ろしてくれと言い出し、その通りにしてあげたが、あの人あのあとどうするんだろう。

さて、できることなら客を満載してブハラに行きたいこの運ちゃん、ベルニーで停車して新たな客を物色し始める。客が捕まるまで我々のことは放置するつもりらしい。適当だ。こちらもタクシーを降りて周辺を散策。

1時間ほどベルニーに留まってようやくおっさんの客を確保した運ちゃん。11時半ベルニーを出発。140 km/h でぶっとばす。おっさんと百均の「ロシア語会話」用いてコミュニケーション。どうやら彼は兄弟の結婚式のためにブハラに行くらしい。

さて、1550分ブハラ着。予定より大幅に早い。バスだと8時間かかるそうなので、本当にあの運ちゃんに捕まったのは運が良かった。

ブハラの中央、ラビハウズで降ろしてもらう。ハウズは「池」の意で、ラビハウズは1620年につくられた人工の池らしい。オアシス都市国家ブハラの命の水。が、見た目は緑色で、飲んだら死にそう。洗濯したら余計汚れそう。

旅仲間が宿探しに出かけ、私は荷物番をしつつしばし休憩。ナーディール・ディヴァン・メドレセの石段に腰掛け、涼をとる。ブハラも町全体が遺跡という感じ。

と、一人の青年が「ツーリストか?」と英語で尋ねてきた。「そうだ。」「宿は決まってるのか?」「まだだ。」「うちのホテルにくるといい。」

お、これはまずいぞ。若干おろおろしていると、宿探し組が帰ってきた。「君らは仲間か?」「そうだ。」「うちのホテルに来いよ。」「いくらだ。」「一人10ドルだ。」

それはなかなかお安い。

「シャワーはついてるのか。」「もちろん。ちゃんとお湯が出る。」「クーラーは?」「ついてるよ。とても新しくてキレイな部屋だ。」

そんなにいい場所だったら「地球の歩き方」に載っているだろうに、とページを繰ると、

「いや、ガイドブックには載ってないよ。とにかく新しいホテルだからね。すぐ近くだからついてきてよ。」

やや警戒しつつ、すぐ近くだと言う彼の言葉を信じ、ついていく。と、本当にメインストリートのバハウッディン・ナクシュバンディ通りから路地を10 m も入らずに到着した。案内された部屋は想像以上に新しくてキレイ。35ドルもぼったくられた昨日の宿と比べてもずっと広い。エアコンも最新式。お湯も湯水のように使える。ここ ”MALIKJON B&B HOUSE” はかなりの掘り出し物だった。タクシー運ちゃんに引き続き、またしても青年に捕まってよかった。彼の名前はオリム。大学生で、夏休みはこのホテルでバイトらしい。

16時半、ラビハウズの屋外カフェでラグマンを食べる。

18時ホテルに戻り、シャワー・洗濯など。

今日の支出:19ドル

2011年6月20日月曜日

8月24日 ムイナクからウルゲンチへ

7時半起床、朝食。8時半、キリストによく似たイタリア人とタクシー相乗りし、バスターミナルへ(400 cym)。9時にヌクス行きのバス出発(3500 cym)。

12時半頃ヌクスに着くが、一昨日のバスターミナルではなく、どこかのバザールの前に降ろされた。「地球の歩き方」に載っているヌクスの地図はあんまり信頼できないが、とりあえずそれを見ながらうろうろする。とさっきタクシーで相乗りしたキリストを発見。彼、その風体やタクシーの値切り交渉の巧みさから言って、相当旅慣れてるっぽかったので、バスターミナルへの行き方も尋ねてみた。彼は日本で言う「地球の歩き方」のような本をめくりながら、親切にもターミナル行きのバスまで連れて行ってくれた。その本にはかなり詳しい情報が掲載されているようなので、ついでに「ウルゲンチ行きのバスが何時に出るかもわかるか?」と尋ねてみた。するとキリストは「客が一杯になったら出発するよ。」と答えた。適当だ。さすがイタリア人。

ターミナル行きのバス、というか小さなワゴン車には野菜売りのお姉さんが乗っていて、ターミナルで我々が降りるときにタダでトマトをくれた。ミネラルウォーターで洗って食べた。おいしいトマトだった。

バスがいつ出るのか不安だったか、かなり運よく、ほとんど待たずに乗ることができた。14時出発。ひたすら広大なステップを走る走る。ヤギ、ウシ、ロバなどの家畜も多く、癒される。カラカル・パクスタン共和国を出て、17時ウルゲンチ着(4000 cym)。

バス停から現在地を把握するのはかなり難易度が高い。ヌクスに引き続いてウルゲンチでも迷ってしまう。お店の人や街行く人に地図を見せつつ尋ねるも、言葉がわからないとどうもうまく情報伝達できない。結局諦めてタクシーを拾い、手ごろなホテルまで連れて行ってもらえるように頼む(5000 cym)。

で、本日のお宿はホテルウルゲンチ。若干ぼったくられた気もするが(35ドル)、ともかく昨日のホテルが過酷だったので、クーラーあり、お湯の出るシャワーあり、はかなり助かる。

18時頃夕食を食べに外出。ちょっとした広場の出店のようなところでシャシリクを食べる(3000 cym)。その後、明日のブハラ行きバスのバス停を確認するのも兼ねて、ウルゲンチを散策。オガ・ヒイ像なるものを眺めながら大きな公園を突っ切り、アル・ホレズミ通りに沿ってひたすら南下、ウルゲンチ駅へ。かなり立派な駅。ブハラへは電車で行くのも悪くないかと思いつき、駅員に尋ねたり時刻表らしきものが無いかうろうろしてみたりするものの、よくわからなかったのでやっぱり明日はバスに乗ることにする。

バスターミナルの位置も把握したところで、ホテルに戻ることにする。と、小腹が減ったので通り沿いのカフェに寄る。スープがおいしかった(2800 cym)。

22時頃ホテルに戻り、就寝。

今日の支出:48ドル

2011年6月18日土曜日

8月23日 ムイナクへ、船の墓場

PCのデータ整理してたらスタン紀行が発掘された。
もうだいぶ時間が経ってしまったけど(2008年の旅行だし)、せっかく人に読んでもらうために書いた文章なので、ぼちぼちコピペします。
でも写真貼るのがズレたりなんだりで結構めんどうなので、文のみで。あしからず。

823日 ムイナクへ、船の墓場

7時起床。ホテルで朝食。日本人の若夫婦と少し話す。彼らは仕事を辞め、世界一周を目標に旅をしているらしい。日本を出て一年経った今でも、アジアから出られないらしい。

8時にホテルをチェックアウト(15ドル)、タクシー(4000 cym)でバス乗り場へ。

850分頃、ムイナク行きのバス(3500 cym)が発車する。こちらのバスは日本と同じ大きなバス。満席で、荷物を抱えながら座るとかなり窮屈。でも窓からのそよ風が気持ちいい。隣席のウズベキスタン人グループと仲良くなる。

12時半、ムイナク到着。しかし何も無いバス停だ。タクシーも来なさそうだ。

どうしよう、と困っていると、先ほど仲良くなったバスの同乗者がホテルアイベックまで乗せて行ってくれた。しっかり運賃は取られたが。

ホテルで少し休み、韓国人らしいホテルの主人に道を訊いて、『船の墓場』へ出かける。

この船の墓場、私は来るまで知らなかったが、最近メディアでも取り上げられた有名なところらしい。

ソ連の灌漑事業の弊害と地球温暖化があいまって、砂漠化が進むアラル海。かつて漁村として活気のあったムイナクも、今ではすっかり寂れてしまった。アラル海が干上がって海岸線が100 kmも遠のき、置き去りにされた漁船が無残な姿を晒している。なんともやるせない風景。「地球の歩き方」に載ってる写真では辛うじてステップの草木が船の周囲に繁っていたが、今ではもう完全な砂漠。サラサラの砂。遠く地平線を眺めやると、徐々に青緑色になっているが、これはアラル海の水ではなくて草原の海。早晩あそこも砂漠になるんだろう。

村唯一と思われる小さな食料品店で、ガス入り水を 6 5800 cym)買い込む。あまりの渇きと暑さに正常な判断力を失って、アホみたいに買ってしまったのだが、これがあとでとても役に立った。

15時ごろホテルに帰り昼寝。砂漠の炎天下はキツイ。一番人間が活動してはいけない時間に、活動してしまったのだ。せめてもの体力温存。ただこのホテルクーラーはもちろん扇風機も無いので、寝苦しいことこの上なし。

19時頃ホテルで夕食を取る。生野菜は避けるようにしていたが、余りの野菜不足に耐え切れず、N氏(医者)の「おれのクラビットやるから、食え」のお言葉に甘えて、もりもりサラダを食べる。やっぱ野菜うまいな。

20時頃、陽が翳ってきたので再び船の墓場を散策。

このぐらいの時間帯に現地の人は活動するらしく、子どもたちも遊んでいた。

彼らは見慣れない日本人に興味津々で、しきりにまとわりついてきた。アイベルクくんとシトーくん、あと二人いたが忘れてしまった。彼らと、墓場の船の上によじ登るなどして遊んだ。とても楽しかった。

21時頃ホテルに戻る。このホテルアイベックは当然ムイナク唯一のホテル。最近観光客に注目されているとはいえ、こんな寂れた砂漠の村にホテルがあること自体驚きなのだが、これがなかなか迫力ある佇まいなのだ。

特に閉口したのがトイレ。汚い。臭い。かつては水洗だったようなのだが、今は動かないらしく、便器のそばに水を溜めた樽と手桶がある。それが触れただけでもコレラになりそうな汚水なのだ。そこに手桶が半ば浸かってぷかぷか浮いているのだ。触れるかー!!!たぶん船の墓場らへんで野糞でもしたほうがよっぽど衛生的。どんな下痢便でも次の日になればたちどころに乾燥・滅菌されるだろう。

トイレの隣にシャワースペースもあるのだが、そこも水が出ないらしい。まあ出たとしてもどんな汚水かわかったもんじゃないし、こんな臭いところで浴びる気にもならんが。

と、旅仲間が随分さっぱりした様子で外から戻ってきた。曰く、「ホテルの前の廃墟で水浴びてきた。」とな。え、このガス入りミネラルウォーターを?

「スパークリングシャワーっすか!!!」

「いや、意外とスパークリングしなかった。」

確かに今日は汗びっちょりで、是非ともシャワーを浴びたい。

でも廃墟で?うら若い乙女が?生肌晒して水浴び?アブねえじゃねーか。

「……行ってきます。」

「おお、いってら。」

「なんかあったら大声出します。」

「ハイハイ。」

てなわけで、洗顔フォーム、バスタオル、そして1 ℓのミネラルウォーターを引っさげ、廃墟へ。

一部ずつ脱いだり着たりしながら水浴び。でも気持ちよかった。乾燥してるからすぐ乾いちゃうしね。

布団に入り就寝するも、暑くて寝苦しくて何度も起きてしまう。その度に、パジャマやベッドが濡れるのも厭わず、頭からミネラルウォーターをかぶる。どうせ一時間もしないうちに乾いちゃうからね。6 ℓ買っておいてよかった。

今日の支出:30ドル

入院の思い出4

入院話最終回。

・ピエロのオルゴール

 入院中はお見舞いの品をいろいろもらったのだと思うが、一番嬉しかったのはピエロのオルゴール。父が買ってくれた。ほんの手のひらサイズで、小さなハンドルを回して鳴らすもの。シンプルな箱形で、ピエロの絵が印刷してある。私と妹に一つずつ。私の曲は「星に願いを」。入院中の無聊をだいぶ慰めてくれたと思う。

・妹の点滴が抜けた

 入院中の一大事件。母が売店にアンパンを買いに行っている間、私と妹は空想の世界で遊んでいた。一人ではつらすぎる絶対安静も、妹と二人ならへっちゃら。

 妹と私は家でも消灯後よく空想の世界に旅立っていた。なかなか寝静まらずに騒いでいるので母に「早く寝なさい」と怒られることもしばしば。何の道具も使わずに、言葉だけを操って、たくましい想像力で以て遊んでいた。

 で、そのときのテーマはあろうことか、「入院ごっこ」。夢の世界に行ってまで入院して何が楽しいのかよくわからんが、まあとにかく言葉でロールプレイングをしてたわけだよ。あんまり憶えてないけど。

 と、そうこうしているうちにふと妹の姿を見たら、ベッドが血まみれだった。びっくりして「○○ちゃん、血が出てるよ!」と言ったら、「大丈夫だよ、『ごっこ』だし。」と噛み合わない返答の上にヘラヘラ笑っている。「いや、本当に血が出ているんだよ!」と叫ぶが、「『ごっこ』だから〜」と何やら楽しそうだ。

 注射をあれだけ怖がる妹のことだから、あのとき平然としていたのは今思えば自分の出血に気づいてなかったんだろう。でも私の目に映るのは、自分の血で真っ赤に染まったシーツにくるまれながらニコニコ笑っている妹、という相当ホラーな状況だったんだ。まあその出血も今となってはどれだけ酷いものだったかはわからない。私の記憶ではベッドがまさに血の海、という状態だったのだが、あまりの衝撃に脳が大袈裟に感じてしまっただけで、本当は大したことなかったかもしれない。

 とにかく私は動転してしまった。早くしないと妹が死んでしまう。ママはしばらく帰ってこない。看護婦さんもいない。私がなんとかしなくちゃ。が、自分とて点滴に連結させられベッドから動くことができない。絶体絶命。

 と、ふと思い出したのが「押しちゃいけないボタン」。正確には「ふざけて押したらダメ、でももし何かあったら押しなさい、看護婦さんが来てくれるから。」と言い含められていたボタン。早い話がナースコール。今こそ、今こそこのボタンを押すとき。

 すぐに看護師さんに繋がり、「どうしましたか〜?」と明るく尋ねられた。「妹のベッドが血まみれです。」とでもいえば良かったんだろうが、ただでさえ日本語が不得手な3歳児、おまけにパニックも重なってわけわかめ、泣きながら「○○が、○○が、」と繰り返すだけで精一杯だった。

 すぐに何人もの看護師さんが駆けつけてくれ、妹の処置やシーツ交換などを目にも留まらぬ早さで成し遂げていった。ちなみに母が売店から帰って来たのもそのときで、何人もの看護師さんが出入りしててんやわんやになっているのを目にして相当びっくりしていた。

・政見放送へのうらみ

 妹は私より症状が軽かったので、リハビリ?も私より早くに取りかかった。退院へのステップとして、ベッドから離れて病院内をお散歩することを許された。しかし妹がお散歩に行くということは、その間私は一人病室に取り残されるということなんだな。もちろん母は付き添いで妹についていく。ただでさえ一人は淋しくて退屈なのに、その間母と妹は水入らずでお散歩を楽しみ、かけがえのない経験を共有していくわけだ。その切なさったら筆舌に尽くし難い。

 朝食を食べ、8時半くらいから子ども番組を見、850分くらいから「みんなの歌」が始まって、9時から「おかあさんといっしょ」が始まる。違うかもしれないけど、だいたい朝はこんな感じで過ごしていた。が、ある時期選挙シーズンに入ったのか「みんなの歌」が潰れて政見放送になることがしばしばあった。

 そこで母が「もしみんなの歌があったら、3人で一緒に見よう。もしなかったら○○ちゃんとお散歩しよう。音姫ちゃんはお留守番ね。」と言った。だから私は「今日こそみんなの歌がありますように」と一生懸命お祈りした。でもその想いもむなしくみんなの歌は潰れてしまい、母と妹はお散歩に行ってしまった。おのれNHK・・・

2011年6月16日木曜日

入院の思い出3

コピペ続き


・「『いで』って言って」って言う看護師さん

 私は注射で泣くことはなかったが、ある時に「いでっ(痛てっ)」と漏らし、それが妙に看護師さんのツボにハマったらしい。以来その看護師さんには会うたびに「『いで』って言って」とリクエストされるようになった。正直めんどくさかったが、私のことを気に入ってくれているのは純粋に嬉しかったし、そういう人の要望にはなるべく応えてあげたいので、毎回「いで」って言ってあげた。

 入院中は何人かの看護師さんにお世話になったのだが、その中でもこの看護師さんは2番目くらい頻繁に私の前に現れたので、看病に来た母にその看護師さんのことを話すことも多かった。しかし私は彼女の名前を知らないので「「『いで』って言って」って言う看護婦さんがね・・・」という具合に表現していた。なんともまどろっこしく、語呂も最悪だとは常々思っていたのだが、彼女のアイデンティティを表現するにはこれしかなかった。


・成長痛

 幼児期、私はしばしば足の痛みに悩まされた。両足がぎゅーっと引っ張られて、骨が悲鳴を上げている感じ。第二次性徴期でもたまにあったので、おそらく成長痛だと思う。結構辛くて歩けない、立てない。注射には泣かなくても足の痛みには泣く。

 肺炎の苦しさは全く憶えていないが、入院中にも何度か成長痛が起こったのは記憶している。病院だから治してくれるかと思っていつもより気持ち激しく痛みを訴えたが、看護師さんとしてもどうしたらいいのかわからないらしく、いろいろな姿勢を試させられた。薬飲んだり注射したりで治してくれるわけでは無さそうだったので、ちょっとがっかりした。そのうち看護師さんがベッドの足側を起こしてくれた。病院のベッドは食事のときなどハンドルを回して上半身を起こせるようになっているが、下半身側も同じことが出来るらしい。ベッドの新機能を知ったのが面白かったし、実際足を高くして寝るのは結構気持ちがいいので、成長痛にはあんまり関係がなかったけど「こうすると楽です」という旨を看護師さんに伝えた。その後成長痛が来るたびにベッドの足側を起こしてもらった。

・お絵描き

 入院中の退屈な時間を、ベッドの上という限られた場所でどのように潰していたのかはあまり憶えていないのだが、絵はよく描いていた気がする。それでお世話をしに来た看護師さんに披露していた。

 大人というのは大概、幼児に絵を見せられると「これは何?これは誰?」と尋ねる。私もそうする。でも幼児だって抽象的な絵を描くこともある。誰でもない人物画を描くことも大いにある。

 で、私は「女の子」を描くのが好きだったんだが、看護師さんが必ず「これは誰?」と訊いてくるので、そのときの気分で適当に答えてた。「看護婦さん」とか「ママ」とか「おともだち」とか。いかんせん日本に来てからまだ3年、その貧困な語彙で誰でもない「女の子」の絵を喜んでもらえるようにプレゼンするのは非常に困難だったので。

 私は絵を描くのが好きだったが、描いてもらうのも好きだった。なので母にはよく絵を描いてもらった。それで「ママが描いたんだよ」と看護師さんに見せたこともあった。そのとき母は不在だったのだが、あとで看病に来てくれたとき、「ママは絵がとっても上手だって看護婦さんが言ってた。」と報告したら、「看護婦さんに見せたの?いやだなぁ、恥ずかしいなぁ。」と言われた。

 「私は恥ずかしくないけどなぁ」といまいち腑に落ちないながらも(そりゃおめーは恥ずかしくないだろうがよ)、それ以来母の絵を看護師さんに見せることはやめた。そういえば看護師さんにも絵を描いてもらった気がする。忙しかったろうに、申し訳ない。

2011年6月5日日曜日

入院の思い出2

母に聞いたら、先日書いた「一日中点滴をしていた」というのは記憶違いで、一日のある限られた時間に1本打っていた程度らしい。それを「一日中、夜寝ているときも」と思い込んでいたというのは、相当点滴が嫌だったんだろうなぁ。


で、入院について憶えていることをこの際書き留めておこうと思って、Wordに箇条書きにしてみた。

以下はそのコピペ。

・洋食がうらやましい。

 小学校低学年まで私には牛乳アレルギーがあった。当然病院食には牛乳は出ないし、それに合わせてメニューは和食で、例えば朝食は米・みそ汁・魚の干物・お茶といった感じだった。

 しかし同室の妹は特にアレルギーはないため、毎朝栄養満点の牛乳とそれに合わせた洋風のメニューが並んだ。パン・オムレツ・ヨーグルトとかね。

 別に和食は嫌いではなかったが、やっぱり多くの子どもにとってはパンや卵料理の方が魅力的。もそもそ魚を食ってるそばで鮮やかな目玉焼きを頬張る妹を見るのは切なすぎる。

 3歳児とはいえ、私はなぜ妹とメニューが違うのかを良く理解していた。もしかしたら、母が気を使って丁寧に説明してくれたのかもしれない。私は牛乳アレルギーだから、妹とはメニューが違うのだ。ただ、私の牛乳アレルギーは軽いものだったと思う。牛乳飲んで発作なり蕁麻疹を出した記憶は無いし、ヨーグルトやチーズなどの乳製品は全く問題ないし、パンやスクランブルエッグだって家では毎日食ってたし、目玉焼きにいたっては牛乳関係ねえ。

 でも3歳児はわかっていたんだ。これは牛乳アレルギー用のメニュー。病院には他にも大勢の患者さんがいるのに、「牛乳ダメだけど卵ならイケルんで、魚を目玉焼きと交換してください」なんてわがままは通用しないってこと。世の中はそういうもんだということ。

・点滴は怖いもの

 自慢じゃないが、私は注射に強い子どもだった。泣いたことはないし、泣きたいのを必死でこらえてたわけでもない。単に泣くほど痛いわけでも恐ろしいわけでもなかったってだけ。

 しかし点滴をつけながら看護師さんに車椅子を押してもらいつつ病院内を徘徊していると、おばちゃんの患者だか見舞客だかに「あらまぁ小さいのに偉いわね、点滴痛くないの?」と同情された。偉いと褒められて嬉しかったが、点滴というのはそうやって褒められるほど怖くて痛いものなのだろうか、とちょっと不安になった。現実自分が痛みを感じていないのだから痛くないのだが、子どものうちは大人と意見が異なるとたいてい自分の方が間違っているので、なんだか「痛くない」のは不適切で、本当は「痛くなければならない」のではないだろうか、と思ったんだな。

 で、妹が入院してきた時(私の入院の数日後彼女は気管支炎を発症)、私は自分が間違っていることを確信した。妹は注射が大の苦手で、点滴刺されるときもあらん限りの力で抵抗し、泣き叫んでいたんだ。それを見て「点滴は怖いもの」というのが正しい見解であるように思えた。というわけで私も急に点滴が恐ろしくなり、次の針交換のときには今までのお利口さんが嘘のように泣きわめいた。そしたら看護師さんがぬいぐるみを使って「大丈夫よ〜怖くないのよ〜」となだめてくれた。そして点滴はちょっとチクッとするけど、やはり泣くほどのことではなかった。

 看護師さんに優しくされるのも悪くなかったが「偉いね」って褒められた方が嬉しいし、実際そんなに怖くも痛くもないのにお医者さんの手を煩わせるのもアレかな、と思ったのでそれ以降はちゃんとおとなしくした。

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