2012年11月30日金曜日

清水寺、夜の拝観

11/20、京都出張のついでに清水寺の夜の拝観に行ってきた。

夕闇に沈みつつある京都の街。京都タワーが見えるね。

夜の拝観が入場前だったので、お土産物屋をうろうろ。

地元のボランティアの方かな?清水寺ではこの白い法被を着た人々が観光客の誘導や整理を行っていた。

初音さん4万3千円ですって!

八つ橋しゅーなるものを購入。もちろん季節限定秋栗カスタードを。

でかい。シューがうまい。ニッキがきいてるね。


あげもの。

具を練り物の衣に包んで揚げるらしい。私はじゃがバターを購入。

 そうこうしているうちに開場。




お胎内巡りに挑戦。


内部は本当にまっくら、真の闇という感じで、前方を歩くカップルに激突しないかと気が気ではなかった。
でもお胎内巡りは昼の方が面白いかもね。入る時の真っ暗感と出る時の眩しさがこのイベントの醍醐味だと思う。


紅葉の陰から京都タワーを臨む。


成就院の有名らしいお庭も季節限定で見せてもらえる。

見せてもらえた。お庭の写真撮影はNG。

紅葉のライトアップがキレイ。

いよいよ清水の舞台へ。



この写真が一番お気に入り。上の写真の塔が右上にあって、そこから参道が左下までうねっている。ライトに照らされる紅葉も綺麗だね。

そして清水の舞台と京都の夜景。京都タワーが目立つなw

 以下、ライトアップされた紅葉とそれを映す水面。




 これでおしまい。お疲れさまでした。

2012年11月28日水曜日

自画自賛3

これで最後。自画自賛1、2の続き。 



4. 俳優がすごい 

特に次郎と組長のはっちゃけっぷりがすごい。この作品であれだけ客席をどっかんどっかん言わせたのはこの二人の功績と言っても過言ではない。普段の温和な二人の姿からは考えられない豹変っぷりだ。
乙姫役の私は自作パペットで亀役も担当し、一人二役でなんとか次郎&組長ばりの存在感を保ててた気がする。 
「僕は次郎、浦島次郎だ。」
の、何もかもから解き放たれたような満面の笑みがヤバい。
あと次郎&乙姫からそこはかとなく愛を感じるのが良いね。特に「学園天国」。二人とも役者だわ(自画自賛)。

5. 声優がすごい 

定期演奏会の第2部では演技をする俳優とセリフを言う声優が分かれている。俳優の人数分ピンマイクを揃える財力も無ければ、地声を張るほどの技術も無いんで、舞台袖にある2本のスタンドマイクに向かって声優が入れ替わり立ち替わり、アニメのアフレコよろしく俳優の演技にセリフを吹き込むわけだ。 
で、この声優陣の技量がすごい。私はこの代の演出長になれて超ラッキー。 

次郎役は吹奏楽部部長。声優2回目のベテランで、安定のイケメンボイス。何より本人にイケメンボイスの自覚があるんで、演技に迷いが無い。 
対する乙姫役は2年生のフルート女子。まるで女優のようにエロ可憐な美しい声で、迷わず配役した気がする。 
それから何と言っても亀役、巻き子さんの怪演……もとい熱演。いやホント、亀あっての浦島次郎だったよ。 
組長の声優も良かったなー。彼は声優2回目の2年生で、なかなかドスの利いた悪役声を出してくれてた。かと思えばところどころで浪々と歌声を披露したりね。次郎役とのコンビネーションも良かった。 
あと個人的に推したいのが、悪者Cの「てめえ、口の利き方に気をつけろってんだ!」ってセリフ。2年生の彼のセリフは確かこれだけだったと思うけど、なんかわけわからん魅力があって好きだったな。 

声優の技量は彼らのものだが、その演出は私の功績でもある。やってよかったと思うのは、今まで「俳優の演技に合わせて声優が話す」だったのを「声優のセリフに合わせて俳優が演技する」に変えたこと。俳優の演技を待ってしまうと妙な間ができたりテンポが悪くなってしまったりするんだよね。声優が勝手に話を進めて、俳優がつられて動く方が自然だし楽になったと思う。 

6. 1年生がかわいい 

うん、1年生がかわいかった。男の子も女の子もかわいかった。 
海の仲間役の子達には無理難題を強いてしまったな。曲に合わせて手品とか、舞台上でセーラー服生着替えとか。彼女らのパフォーマンスなくして浦島次郎の成功は無かったよ。組長の子分役もサングラスにアロハシャツorジャージで、なかなか良い演技してたw 
ダンスも良かった。振付けを2年生の後輩に丸投げしたんだけど、本当に素晴らしかった。後輩を信頼してよかった。 
あと1年生には縁の下の力持ち的役割をすごく頑張ってもらった。次郎の放置した楽器を定位置に持っていったり、マンボウ持ってうろうろしたり、手品グッズの出し入れしたり、本当に大活躍だったな。彼らのおかげで劇をスムーズに進めることができた。そしてその采配をしたのは私だ。 

あと10年経って客観的に見てみると、高一と高三て全然違うね!高一はまだ中学生っぽいというか、体もできていないし、若いというかあどけない感じ。高三にもなると身長も伸び、体もがっちりして、若さに欠けるが貫禄が出るというか、ただならぬオーラを放っている。次郎、乙姫、組長という主要キャラを3年生が謎のテンションで演じ、周りをかわいい1年生が囲む図は絵面的に成功していたと思う。 

7. 会場の使い方がすごい 

浦島次郎では俳優が積極的に客席に出たり、舞台裏をかけずり回って上手袖と下手袖を往復したりなど、会場を広く使った。 
冒頭乙姫とチンピラが客席両端から会場に入って、全速力で舞台に登り上手袖に抜ける演出はまさに神だね!これでいきなり客を惹き込んだね。歓声も上がったしね。つーか、客席両端でどうやってタイミング合わせて入ったんだろう。 
ヤングマンで客席に出て「Y!(Y!) M!(M!) C!(C!) A!(A!)」とやったのも受けたなー。 

あとドリル時の1年生のダンス、曲の要所要所でステージに出て踊ってもらい、あとは引っ込んでもらうことにした。その振付けも2年生にお願いしたんだけど、彼らは出番が少ない代わりに袖に引っ込んだら舞台裏を猛ダッシュして、次の出番のときには反対側の袖から出たりなど、かなり凝ったことをしてたんだよね。で、ドリルのコーダ部分ではジャンプしながらステージに入り、ドリル隊に合流するという。素晴らしい演出だったわ。 
次の年、3年生になった彼らが作った第2部は本当にレベルが高かった。 

8. ドリルがすごい 

ステージドリルの強豪校でも何でもないうちの部は、もちろんドリルの指導者もおらず、歴代演出長が見よう見まねで振りつけるわけだが、その割にはなかなかの出来だと思うんだよね。
そしてこの年のドリル、「オーメンズ・オブ・ラブ」は傑作だったと思うよ(自画自賛)。 
特に19-26小節目の8小節、43-46小節目の4小節がいいね(細かすぎて伝わらない)! 
ドリル作成に当たって気をつけたのは、観客は上からでなく前から見るということ。どんなに複雑な図形を描いても、前から見てぐちゃっとしてるんじゃ何も伝わらない。 
だから「どんな隊形か」ではなく、「どうやってその隊形になるか」ということに重点を置いたわけさ。高速移動も無理矢理交差も全ては動きを魅せるためなのだよ。無茶させてごめん。そしてありがとう。 
Cl & A.Sax の Soli の後の動きなんか、10年ぶりに見て鳥肌立つくらい感動しちゃったよ。 
観客の拍手に対してお辞儀した Soli の 4 人が、待つことも急ぐこともなく列の流れに同化し、そして全員で大きな二重円を作る過程が見事だったわ。 



ここまで読んでくれた人ありがとう。本当にわけのわからない自慢話で申し訳ない。 
アラサーになった自分の心を動かす作品を高校時代に作れた自分は、すごくいい青春を送らせてもらったんだなとつくづく思う。

自画自賛2

自画自賛1の続き



1. 脚本がすごい 

脚本は基本的に私が書いていたはずだが、巻き子さんにだいぶアイディアをもらったりダメ出ししてもらったりした気がする。一部執筆もお願いしたんだっけな?他にもいろんな人に回し読みをしてもらって随分ブラッシュアップしたので、私としては「みんなで書いた」という気持ちでいる。 
で、その脚本がおもしろいんだよ!ストーリーがきちっと収まるところに収まっているし、ところどころに挟んだ小ネタがいちいち会場を沸かせていたし、高校生にしてはなかなかの出来。高校生にしてはというか、逆に高校生であることを最大限活用してあまりにも「高校生らしい」作品に仕上げていたところに高校生らしからぬあざとさを感じる。 
特に「じゃかしい、このタコ!」あたりからの組長と亀の掛け合いがツボだ。
あと地味だけど
乙姫「通りすがりの親切な人に助けていただいたの。」 
次郎「僕が通りすがりの親切な人、浦島次郎です。」 
がシュールで好きだ。 

2. 色彩がすごい 

幕が上がって照明がパアッと点いたときのワアッて感じがすごい。 

まず次郎&乙姫の見栄えがいい。次郎は上下が黄青、乙姫はピンク赤で配色的にお互いを目立たせるんだよね。で黄青&ピンク赤はのびた&しずかというか、ヒーロー&ヒロインの記号だと思うんだよね。当時そこまで考えてたかは覚えてないけど、誰が見てもヒーロー&ヒロインに見える衣装なのでよくできてるなぁと思った。 

それから海の仲間達の衣装も良い。ピンク、黄、水、青、緑の5人組なんだが、同じ系列のサテン地を使い、同じデザインの衣装だったからか、ごちゃごちゃすることなく綺麗にまとまっている。携帯などで同じデザインが色違いでズラッと並んでるのって気持ちいいじゃん?なんかそういう派手さと収まりの良さを感じる。 

総勢27名のステージドリル隊も同じデザインの青、緑サテン地だったので、画面の統一感と次郎&乙姫の引き立て効果がよく出ている。サテンは照明をテラテラ反射するのですごく舞台向きの生地だしね。 

あと海の仲間達とドリル隊のしている鉢巻、腕輪、足輪が意外といい味出していると思う。衣装を作るのは着る本人なので、出来がまちまちなのはしょうがないんだよね。上手下手もあるし、丈の長さとか太さとかバラバラになってしまう。そこに鉢巻、腕輪、足輪をつけることで急に画面が締まるというか、「みんなで同じものを着ている」感が出る。 

衣装だけでなく、大道具も良かったな。なんか中華街みたいな「竜宮城」って書いてある門とか、岩と海藻のオブジェとか、数は多くないけど「ここは海底の竜宮城である」という情報が一目で伝わるんだよね。あと岩のオブジェの裏が次郎&乙姫の楽器置き場にもなってたりしてね。賢いわ。高校生の自分賢いわ。

そういう衣装、大道具、照明、そして背景のホリゾントライトが見事に融合して、素晴らしい舞台芸術を演出していた。 

3. 選曲がすごい 

前に挙げた脚本、衣装、大道具、照明は役割分担しつつみんなで作ったものだけど、選曲に関してはほぼ私のワンマンごり押しだった気がする。 

・ オープニングは「海の男達の歌」。この曲は、初めて聴く人にも舞台が海岸であることを伝えられる。段ボールとBB弾で自作したオーシャンドラムが結構ちゃんと波の音してた。 ついでに他校の吹奏楽部員の心を掴む。
http://www.youtube.com/watch?v=ge4K1TyKeoU 

・ 次郎登場シーンや着メロでうらしまたろうの歌を駆使。
 
・ 「Mambo No.5」でマンボウ 
http://www.youtube.com/watch?v=1NjERL5oZrc

・ 「オリーブの首飾り」で手品 
http://www.youtube.com/watch?v=40IUBbt2XVg 

・ 「セーラー服を脱がさないで」「学園天国」「ヤングマン」で保護者の心を掴む。っていうか、顧問S先生の心を掴んだ。 
http://www.youtube.com/watch?v=kwm8Zskinsg 
http://www.youtube.com/watch?v=IqYnEiNrDSA 
http://www.youtube.com/watch?v=NafMcawuMM4 

・ 次郎&乙姫のラブシーンのBGMに、ドリカムの「LOVE LOVE LOVE」をオーボエ&ファゴットのアンサンブルで。こればかりは私のアイディアではなく2年生の後輩の提案によるものだったと思う。楽譜を手配してくれたのも彼女だった気がする。すごく雰囲気があって良かった。 
http://www.youtube.com/watch?v=Xk51AYSNKUc 

・ 「カルミナブラーナ」で組長登場。無駄に大袈裟ww 
http://www.youtube.com/watch?v=VNJy8UCw1gM 

・ 「オーメンズ・オブ・ラブ」でステージドリル。爽やかな良い曲だよね。次郎&乙姫の恋模様を匂わせるラストなので、図らずもぴったりのタイトルだった。 
http://www.youtube.com/watch?v=fVTsHvNhJPI 

自画自賛1

先日実家に帰り、高校吹奏楽部の定期演奏会のVHSを、在学期間の三年分一気にDVDへダビングした。そのついでに、実に10年ぶりくらいにその映像を鑑賞した。 

10年というのは決して短くない期間で、当時は頑張りとか思い入れとかが邪魔をして客観的に観ることができなかったのが、今回は思い出と切り離された状態で、一観客として鑑賞できたのが新鮮だった。下手だ下手だと思っていた演奏が、思っていた以上に下手だったり(笑) 

で、その一観客として観て一番驚いたのが…… 



浦島次郎すげぇーーー!!!(爆) 



めっちゃ感動した。何これ。面白すぎやろ。面白すぎて3回くらい見直しちゃったよ。見直しているうちに「一観客として」はどこへやら、当時の感覚がみるみるうちに蘇ってしまったよ。 

そういうわけで、これから「浦島次郎」の何がすごいのかを自画自賛していくよ!自分の作品を自分で褒めそやするのは決して上品な所行ではないけれども、高校生の頃に作った劇を今になって自慢するくらい良いよね?だってどうせ誰にも伝わらないしね。好きに書かせてもらうよ。私のために。 



自慢の前に、浦島次郎とは何かについて少々。 
うちの高校の吹奏楽部は毎年夏休み前に定期演奏会を開催している。定期演奏会は3部構成となっており、第2部では部員手作りの劇を披露するのが伝統になっている。演奏あり、ダンスあり、その他諸々のパフォーマンスありで、劇の最後にステージドリルで締めるのがお約束。

そして我々が高校三年生の時、2001年度定期演奏会の第2部で披露したのが「浦島次郎〜Legend of 玉毛箱〜」。あらすじは以下の通り。 

乙姫(+亀)がチンピラに絡まれているところを助けた浦島次郎。 
お礼に竜宮城に招待され、海の仲間達のパフォーマンスを鑑賞したり一緒に参加したりして楽しい時間を過ごす。 
乙姫にチンピラに絡まれていた理由を尋ねると、どうやら竜宮城の秘宝「玉毛箱」が狙われてのことらしい。「玉毛箱」は開けると髪がフサフサになるという噂があり、それを鵜呑みにしたヤクザ、関東●●組の組長(ハゲ)が子分を使って「玉毛箱」を奪いに来るとのこと。 
そうこうしているうちに時間が経ち、次郎は竜宮城をお暇することに。乙姫は別れを惜しみつつも、助けてくれたお礼にと秘宝「玉毛箱」を次郎に託し、彼を見送る。 
が、そのとき竜宮城に関東●●組が乱入し、乙姫(+亀)が拘束されてしまう。そして組長は乙姫と玉毛箱を交換しようと次郎に持ちかけた。 
絶体絶命かに思われたが、次郎と亀が組長を煽りまくり、逆上した組長+チンピラVS次郎+海の仲間達の戦闘開始(BGM: ヤングマン)。殴り合いの末次郎が組長をKOし、関東●●組を撃退する。 
改めて次郎に感謝する乙姫達。ようやく心置きなく帰れると思った矢先、次郎は蹴つまずいて転び、「玉毛箱」を落としてしまう。そしてその瞬間、竜宮城が真っ暗に。 
慌てる次郎に余裕を見せる乙姫。どうやら今の衝撃で玉毛箱が開いてしまい、何かが始まろうとしているようだ。その玉毛箱の中身について、乙姫は「奴らには見せたくなかったけど、次郎くんになら見てもらいたくって」と語る。そのわかりやすいフラグに次郎は…… 
ステージドリル:オーメンズ・オブ・ラブ 

というわけ。私はこの代の演出長で、定演第2部を仕切っていたんだ。それじゃあ自画自賛始めるよー。

2012年11月27日火曜日

11/27 とくダネの感想、脱原発


橋下氏(維新の会)、河村氏(減税)、谷岡氏(みどりの風)で原発に関する討論をしてたんだけどさ。
別に橋下氏好きじゃないし、維新の会に政権取って欲しいなんて思わないんだが、まともに日本語話しているのが橋下氏しかいなくて唖然とした。あの番組見て河村氏や谷岡氏を支持しようとする視聴者がいるとは思えない。あの二人には知性の欠片も感じない。
あんなバカを相手にするんじゃなくて、橋下氏はもっとまともな人と議論したほうが面白いし、番組も盛り上がると思うんだけどな。

2012年11月26日月曜日

11/13 とくダネの感想、男性不妊


とくダネが不妊治療について三日間の特集を組んでおり、三日目のこの日は男性不妊をテーマとしていた。
やっと!やっととくダネが「男性にも不妊症があるらしい」と気付いたよ!よかったよかった。テレビの力は偉大なので、これからも定期的に取り上げて「不妊症=女の病気」という偏見を払拭していただきたい。

何組かの男性不妊カップルのルポを見るに、「妻を検査しても異常は見当たらず、何年間も不妊治療を行うが一向にうまく行かず、もしやということで夫の精子を調べたら原因はこちらだった」というケースが多そうだ。

なんで妻しか不妊の検査をしなかったんだろうね。夫婦同時に検査すれば良かったじゃん。不妊治療……というか妊娠出産において、数年のタイムロスは大きい。初めから「夫が原因」とわかっていれば授かる可能性も高かっただろうに、夫婦共にアラフォーの今になって原因がわかっても時既に遅し。は言い過ぎかもしれないが、若い頃に比べて圧倒的に授かりにくい。

カップルのどちらに不妊の原因があるかを示したパイチャートでは、正しい数字は覚えてないけれども男:女:両方=1:2:1くらいだった。あと原因不明が何割か。
これを見て「意外と男にも不妊症がいるもんだな」「でもやっぱり女が男の倍なのか」と思う人がいるかもしれない。でも番組内で挙げられたカップルのように「不妊=女が原因」と思い込んでいるせいで検査すらしていない不妊男性がまだまだ大勢いるんじゃないかな。男:女=1:2というのは「自分に原因があると自覚している男性は女性の半分」とも言える。

近年男性不妊患者が増加しているらしい。これも生活習慣の変化、環境ホルモンの影響などが原因の可能性もあるが、番組内のカップルのようにきちっと検査をする男性が増えてきただけのことかもしれない。
昔は「三年子なきは去れ」なんて婚家を追い出された女性が、再婚したらあっさり授かったなんて話もよくあったそうだしね。

特集のまとめの段に入り、「少子化の原因は?」の問いに対して、とくダネ常連の医療ジャーナリストの伊藤氏が「女性の社会進出が原因の一つ」と述べていた。この人自身は割と冷静で客観的な発言をするし、主張が飛躍することもあまり無い。「女性の社会進出が原因の一つ」というのもある立場からすれば正しいと思う。

が、心配なのはこれを見た愚かな視聴者が何を思うかということ。
少子化の原因は女性の社会進出、女の分際で仕事をしたいなんてワガママを言うから日本がやばい、やはり男は男らしく女は女らしくすることがあるべき姿であり、日本再生のために取るべき唯一の道である。

女性の社会進出を禁止することで少子化が止まるならそうすりゃいいけどさ。そうなると男性が妻子を養わなければならないけど、大丈夫?できる?
というか、「少数の裕福な男性のみが結婚し子を持つことができる」ってことになるよね。カップル数は激減するし子どもが増えるとは到底思えないんだが。

女性にも男性と同様仕事をする自由があるべき、という議論は大事だが、ここでは割愛しよう。
とにかく現代日本では、妊娠適齢期の若者には金がない。女性が働かずにすむ世の中ならいいけど、現実は甘くない。女性の社会進出は個人のワガママではなく、社会から強制されている。
で、男女問わず、妊娠出産育児は経済的にデメリットが大きい。支出が増すだけでなく収入が減る。それも一時のことではなく生涯にわたって。
妊娠適齢期の20代って気兼ねなく妊娠できる?普通は仕事が一番大変な時だし、この時期の頑張りが後々の出世や収入アップに繋がるわけで、妊娠なんかしている場合じゃないと思うんだが。男女問わず。
いくら出産手当だの子ども手当だのその場限りの現金を頂戴したって、「子どもがいなければ稼げたはずの額」を思えばなかなか産もうとは思えないよね。
で、30代も半ばを過ぎてやっと少々の見通しがついた、さて子どもを、という頃には男女問わず生殖機能が衰えて妊娠しにくくなっている。ある種の先天性疾患のリスクも上がる。

これって女のワガママのせい?でも男性も若い頃に子どもを持つことを積極的に忌避しているよね。確かに妊娠出産の身体的負担は女性にしか無いけれども、家計を同じくするカップルなら子どもをもつことによる経済的負担は同じ。子どもは否が応でも仕事の手枷足枷となるので、出世街道から外れるリスクも高まるし。それじゃあ子どもを持つ気にも、誰かと家計を同じくする気にもなれんわな。

うんだから、この特集で問題となっていた「初産を迎えるカップルの高齢化」は、結局若い時代に子どもが産めない社会の在り方に原因があると思うわけ。若者に「卵子の劣化がヤバいよ!男性不妊もヤバいよ!」と啓発したところで少子化は止められない。だって産めないものは産めないんだもの。

少子化を止めるには金がない若者が子どもを産める社会に変えていくしか無い。
例えば大学生の結婚妊娠出産を奨励する。
子持ちでも就職に不利にならないようにする。
新入社員のくせに結婚妊娠出産して職場に迷惑かけるヤツを白い目で見ない。
やれ産休だ育休だ子どもが風邪引いただでちょいちょい消えるヤツでも、それを理由に出世や給料で同僚と差をつけない。

要するに個人の考え方を変えないと少子化は止まらないと思うんだよね。
「親になるべきは経済的にある程度安定し、そこそこ将来の見通しも立つ大人のみ。金もないのに後先考えず繁殖するのはだらしがない、みっともない。」という常識を根本的に変えなきゃいけない。
だって「経済的にある程度安定し、そこそこ将来の見通しも立つ20代」は現代日本にはほとんどいないもの。
むしろ金はなくても時間はある学生時代に子どもを持って、育児で一番時間を拘束される時期を学生としてやり過ごし、子どもが保育所に預けられるくらいの歳になったタイミングで就職する方が賢い。

公的な支援もさ、産む時だけお金くれてもしょうがないんだよね。まあそれで助かる人もいるから無意味とは言わないけど、産んだら終わりじゃないんだからさ。一人一人にはした金を撒くんじゃなくて、そのお金を産婦人科や保育所の整備に回した方が少子化は止まるんじゃなかろうか。
少子化少子化と言ったって、その少ない妊婦や子どもですらあぶれている現状のわけだから。そりゃ子どもは増えないよね。

2012年11月23日金曜日

遺伝

先日の京都のシンポジウムには旧S研OBが勢揃いしてた。
フランスから帰ってきたHさんを後輩のS君やKちゃんに紹介しようとしたんだけど、「前の研究会で会ったよ(笑)」と余計なお世話扱いされてしょぼん。
いや、彼らが既に顔見知りであることは知ってたけどさ。せっかく親子?三代揃ったところだしさ。自分の師匠に自分の弟子を見せたかったんだよ。
Hさんが教えてくれたことは、この子たちに繋ぎましたよ、みたいなさ。
S君とKちゃんに教えたBSや卵取りは、私も同じようにHさんに教わったんだよ、みたいなさ。

遺すこと、伝えること。

2012年11月11日日曜日

台湾で日本人死亡 誤って転落?

日本人観光客が死亡、100m下に転落か…台湾
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121110-OYT1T00828.htm


ニュースのタイトル見たときもしやと思って開いたら、案の定太魯閣渓谷だった。

 7年前母と妹と台湾を旅行した時、太魯閣渓谷にも訪れたんだが、その道程で台湾人のガイドさんが道祖神?に出会うたびに拝んでたんだよね。台湾人は信心深いなあ、なんて思いつつ私もそれに倣ったんだが、現地に着いてみてびっくり。 

太魯閣渓谷は切り立った崖と紺碧の渓流、至る所から噴出する滝が織りなす風光明媚な場所なのだが、前日豪雨があったそうで濁流渦巻きヤバいことになっていた。 
でガイドさんが案内の途中にちょいちょい「ココ先月の崖崩れの痕ネ」「昨日もあの辺で崖崩れがあって、観光バスに直撃しそうになったけれど間一髪助かったネ」と差し挟むんで生きた心地がしなかった。ガイドさんがあんなに真剣に拝んでいたのはそういうことだったのか。 

一番怖かったのは、渓流の数十 m 上空 に張り出した崖をくりぬいて作ったらしい歩道を歩いていた時、そこに500円玉大の穴を見つけたこと。 


穴があいているから怖かったのではない。穴から見える濁流に足がすくんだのでもない。 
その穴によって、今いる歩道がわずか 2 cm 足らずの厚みしかないことに気づいてしまったからだ。 


前日の悪天候にも関わらず太魯閣渓谷は観光客でかなり賑わっていたのだが、私は蜘蛛の糸のカンダタの気持ちがよくわかった。 

この記事には「誤って転落した」とあるけど、私は何かの事故に巻き込まれた可能性もあるんじゃないかと思う。 



でも一度は本当に綺麗な太魯閣渓谷を見てみたいんだけどねー。

2012年11月8日木曜日

幸せの閾値


最近「シュタインズゲート」というアニメを見て、面白かったので原作のゲームを購入した。
ゲームの方もアニメ同様ストーリーやSFの設定がよくできていて面白いんだけど、残念なことに日本語がおかしい。特に馬から落ちて落馬系が多い。
例えば
「鮮やかなほどの紅が……」
「俺は心の中の好奇心を抑えきれずに……」
「○○という危険性がある可能性を考えて……」
などなど。
ゲームが面白いだけに、こういうところが何とももったいない。
まあ私の文章も大概だけど、プロの仕事には相応のクオリティを要求したい。

ライトノベルにも酷いのがあるよね。
ある大人気ラノベを試しに開いてみたんだけど、1ページ目で読む気が失せた。筆者の知性の無さがその1ページから溢れんばかりだったよ。あれ以上読み進めるのは生理的に無理。

しかしあのラノベが好きな人は大勢いるんだよな。おそらく彼らはあの稚拙な日本語に違和感を抱くことなくスイスイと読み進め、筆者の描く独創的な世界を堪能できるんだろう。それは良いことのような気がする。「私インテリだから、こんな文章恥ずかしくって読めないわ」なんてお高く止まるよりも、ずっと人生楽しいと思う。

あることに対して造詣が深まると、それと比例して満足を覚える閾値が高くなってしまうんだよね。文章だけでなく音楽とか絵画とかその他諸々。

両親は音楽の専門家なのだが、小学生の頃音楽会の出し物にダメ出しされた記憶がある。小学生の合奏に何のクオリティを求めているんだと、小学生ながら思った。いや親としては子どもたちよりも、それを指導する専科の教員に物申したかったのかもしれんが、「よく頑張ったね。」「みんなとっても上手だったよ。」と褒められることだけを期待して帰宅した小学生に言うセリフじゃないだろう。当時の自分も可哀想だが、意気揚々と帰ってきた子どもにダメ出ししちゃう親もある意味不幸だと思う。それが満足の閾値が上がってしまった結果もたらされたものならば、「違いのわかる耳」を持つことが果たして幸せなのかどうか。
私は舌が肥えていないので何食っても美味いと感じるけど、「美味しんぼ」の山岡みたいな食通は世の中不味い物ばっかりで可哀想だと思う。
そういうのっていろいろあるよね。芸術だけじゃなくて、スポーツとか道具へのこだわりとか、本当にいろいろ。

私は生物を専攻しているが、生物に造詣があるせいで満足しづらいこと、何かあるかなー。「iPS細胞ちゅーので抜け毛から知らないうちにクローン人間が作れるらしい!」というノリについていけないことくらいか(笑)。科学を取り扱う小説などは、余程変でなければフィクションだと割り切るしなー。
あ、でも科学者の扱いに関しては結構敏感かな。「シュタインズゲート」はまさにそう。メインヒロインが天才科学者って設定なんだが、その割に頭が悪い。主人公との議論も稚拙。まあ作者の知性を超える作品は書けないってことだね。
他の作品でも科学者キャラがやたら科学者を自称したり、「論理性」を強調したりしているのはイラッとくる。しかも全然論理的じゃないし。

しかし知識に乏しい方が幸せなのかというと、それもおかしい。

以前研究室の先輩
「小説は、漫画・ゲーム・アニメ等の動画に比べて劣っている。なぜなら漫画・ゲーム・アニメは絵や音声や自分で動かすことを通じて効率的に情報を得られるのに対し、小説は文字情報しか持たないため非効率的だからだ。」
なんてアホなことを言い出したのでびっくりした。そういう考え方があり得るのか。
でもラノベをチラ見して、その先輩の言わんとするところが多少わかった。
全部がそうだとは言わないけど、ラノベの多くは映像が前提なんだよね。
筆者の頭の中でアニメが放映されていて、それをそのまま原稿に記載している感じ。同人作家など素人が陥りやすい。私も中学生の頃文芸部でその手の小説を書いていたので、痛々しさがよくわかる。
これじゃ確かにその作品が小説である価値は無いわな。
しかも小説を書くのに道具は要らない。漫画には多少の道具と画才が必要だし、ましてアニメは素人一人で作れるようなものではない。だからいつか人気が出てアニメ化してもらうのを夢見ながら、自分は小説での表現で妥協してるわけだ。うん。小説はアニメその他に劣っている。

でもさ、文章ってそうじゃないよね。文章はそれ自体が芸術なんだよ。小説を読むのは「文字という乏しい情報から時間的肉体的コストをかけてストーリーを把握する作業」じゃなくて、文章そのものを鑑賞しているわけよ。
小説で表現できないことをアニメその他で表現できるのかもしれないけれど、アニメその他で表現できないものが小説にはある。優劣なんぞつけられない。
小説から芸術を引いたら文字情報しか残らない。音楽から芸術を引いたら音声情報しか残らないのと同じように。
その先輩には文章に対する感受性が無いから、あんな恥ずかしい発言をしちゃうんだな。それってすごく貧しいし、不幸なことだと思う。まあ本人がそれを認識してない以上「幸せ」なのかもしれんが。

造詣が深くなると満足の閾値は上がるのかもしれないが、素晴らしいものが本当に素晴らしいことを理解できるんだね。
アマチュアオケのクソ演奏でもそれなりに感動してしまう私の耳では、本物の本当の良さが理解できないのかもしれない(笑)。理解するためにはそこそこ時間をかけて勉強しなければならない。

シュタインズゲートや某人気ラノベを手放しで楽しめないのは残念だけどねー。

2012年11月3日土曜日

劇場版魔法少女まどか☆マギカ総集編 前後編3-5:まどか


☆ネタバレありの感想

これで最後。











・まどか

こういうファンタジーでありがちなのが、少年少女が主人公なのに親の存在感がないこと。でもそれはある程度仕方がない。良識ある大人がそばにいると主人公が不思議や危険に巻き込まれる機会が失われてしまう。物語が始まらない。

まどか☆マギカも例に漏れず、まどか以外の4人は親が死んでいるか、そもそも言及されない。
でもまどかだけは違う。両親と弟と4人家族で、支えあい慈しみあう幸せな家族であることが丹念に描かれている。劇場版ではOPから幸せ家族のダメ押しをしている。
そして中学生になり、自分の生き方についていろいろ考えるようになってきた娘に対して、両親はそれぞれ人生の先輩として己の見解を語るんだよね。特にまどか母の晩酌シーンが良い。

母「まどかは良い子に育った。嘘もつかない、悪いこともしない。だから今度は間違えることも覚えな。若いうちは傷の治りも早い。今のうちに上手な転び方を勉強しておけば、後々必ず役に立つ。大人になっちゃうとね、どんどん間違えられなくなっちゃうんだ。背負った物が大きくなる分、下手を打てなくなる。」
まどか「それって、つらくない?」
母「大人は誰でもつらいのさ。だから酒飲んでいいってことになってんのよ(笑)」
まどか「私も早く大人になって、ママとお酒飲みたいな。」
母「おー、なっちゃえなっちゃえ。つらい分楽しいぞ、大人は。」

こういうこと言える大人になりてぇ。
「俺、大人になったらママとお酒飲むんだ」っていう死亡フラグが泣ける。
子どもたちが笑ったり泣いたりしているだけでなく、かつてそういう経験をし、もっと難しい局面を乗り越えてきた大人をちゃんと描いているから、まどか☆マギカの物語は立体的になり、深みを増すんだよね。
そしてまどかの出した答えは、あの家族で育まれたからこそ、特にあの母親の娘だからこその選択だと思うんだ。

魔法少女のシステムについて明かされていく過程と、それでもやっぱり魔法少女になろうとするまどかの願いが興味深い。
「魔法少女になりたい」→魔法少女の死を目の当たりに→「さやかを助けたい」→魔法少女の本体はSG→「さやかを助けたい」→魔女は魔法少女の成れの果て→QBの目的は少女を魔法少女にして魔女化させること→「新世界の神になる(その結果さやかも助かる)」。

こうして見ると、まどかは大体さやかのために契約しようとしているんだね。というかQBは大概さやかをダシにして契約を迫るよね。やはりほむらはさやかを魔法少女にさせてはいけなかった。
魔法少女の契約がどれだけ胡散臭くて割に合わないか一つずつわかってきて、それでもなおさやかのために犠牲になろうとするまどかマジ女神。
またその度に駆けつけて、すんでのところで契約を阻止するほむらマジ苦労人。
そりゃ「何度忠告させるの。どこまであなたは愚かなの。」とキレたくもなる。
「どうしてあなたはいつも自分を犠牲にして……勝手に自分を粗末にしないで。あなたを大切に思う人のことも考えて。いい加減にしてよ!あなたを失えば悲しむ人もいるって、どうしてそれがわからないの?あなたを必死で守ろうとしてきた人はどうなるの?」と泣きたくもなる。
ほむらの真の敵は、何度忠告してもどんな目に遭っても、性懲りもなく契約しようとするまどか自身かもしれないww

最後のまどかの願いは、初めにテレビを見たときには全然腑に落ちなかった。なんでも叶えられるのに、なんでそんな微妙に痛みを伴う願いを選択したんだ。諸悪の根源はQBであり、魔法少女の犠牲なくしては成り立たない宇宙のエネルギーシステムであるのに、どうして「魔女を消す」なんて対症療法を取るんだ。

でも何度か見直すうちにわかってきた。
まどかは「魔法少女が起こした奇跡」は肯定しているんだよね。そして「奇跡には代償が伴う」ことも肯定している。QBとの関わりの中で人類が紡いできた歴史も肯定している。たとえQBに牧場の家畜扱いされていたんだとしても、彼らの干渉によって少女達が奇跡を願い、歴史が変わり、今の世界があることを、まどかは否定したくなかったんだね。

でもその代償が「魔女化」っていうのはあんまりだ。奇跡を祈った分呪いを背負い、希望を願った分絶望を撒き散らすなんて酷すぎる。
だからダークサイドに堕ちる前に、奇跡を願う綺麗な心のうちに、私がみんなを殺す。

そういうことなんだよね。まどかが変えたのはそこだけ。魔法少女の最期は「魔女化」ではなく「死」。
魔女化と死、どっちがマシかと言えばどっちもどっちだと思う。でも考えてみれば、命あるものは誰でも死ぬんだよね。ゾンビ状態の魔法少女が迎える死の形は、SGの消滅でしか有り得ない。さやかみたいに素質がなければ穢れの浄化が追いつかなくてすぐ死ぬだろうし、マミや杏子だったら結構長生きするだろう。人間と魔法少女のどっちが寿命が長いか知らんけど、生きるために戦い、最期には力尽きて死ぬのはどちらも変わらない。

あとまどかの願いは「魔法少女が絶望して魔女になる。その魔女を魔法少女が殺す。」という不毛なサイクルを止めたという意味もある。それに伴ってQBと魔法少女の関係も変化し、間接的に魔法少女の精神状態はマシになっているんではなかろうか。

QBは少女をSGにするだけでなく、明らかにわざと絶望に導いているよね。例えば契約前にさやかに「君はSGとなりゾンビになる。そしてやがて魔女になる。それでも彼の腕を治したいかい?」と説明したら、さやかはやはり契約しただろうし、うかつに魔女化することもなかったと思うんだ。

宇宙改変後、魔女に替わって世界の歪みを引き受けた「魔獣」。魔獣の発生メカニズムは作品中で明らかにされていない。とにかく新しい世界で魔法少女は魔獣を倒し、それで得られたキューブのようなものでSGを浄化し、濁りきったキューブをQBは回収してエネルギーか何かを取り出すようだ。

だからQBは契約した魔法少女はなるべく長持ちさせたい。一人当たりの総エネルギー回収量を上げるにはそうやすやすと死なれては困る。魔法少女がSGであることも、浄化を怠ると死ぬことも最初に説明して、彼女自身が呪いを生んでSGを消耗させないように、常に少女の精神状態を良好に保つよう勤めるのではないだろうか。もしそうなら「魔女化」の代わりに「死」をもたらした意味は大きい。

あと一番重要なのが、まどかが「概念」となったことで、副次的にほむらの努力がまどかに全部伝わったことだよね。ここで初めてほむらのたゆまぬ努力が、何度もやり直して、その度にまどかが死ぬのを見て、時には自らまどかを手にかけて、立ち止まることも諦めることも許されずに、たった一人で時間の迷路を走り続けてきたことが報われたんだよね。ここで声にならない声で泣くほむらに、もらい泣きせずにはいられない。


ところで、どんな願いでも叶うなら、「全ての魔女を生まれる前に消し去りつつ、私という個体を保ってこのまま人生をエンジョイしたい。」にすればよかったんじゃ?
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