2015年11月19日木曜日

ハロウィンの衣装4

完成品の写真。






ハロウィンの衣装3

つづき。魔女の帽子。

いくつか型紙を作って試してみる。

こんな感じ。

型紙を写して切り抜く。

円錐はミシンで縫う。しつけ縫いは大事。

円錐につばを手縫いで縫いつける。
手縫いでもしつけは怠らない。


できた。

色違いのもの(裏地)を作って中表に合わせる。

縫った。

開口部から無理矢理ひっくり返す。

つばを一周縫って完成!

ハロウィンの衣装2

つづき。

スカートのベースに三段フリルをつける。


こんなふうに。


スカートの別パーツにレースをつける。


手芸屋さんで一目惚れした十字架のレース。
高かった。厨二くさい。


スカートの全パーツを結合し、十字架のレースをつける。



試着させたら、布が余ってガホガホしてしまったので、少し切る。

上半身と連結。

ワンピースになった。

ファスナーをつける。

本人に着せて、リボンを編み上げる。完成!


ハロウィンの衣装1

今年のハロウィンは魔女っ娘ドレスを作って烏玉さん&青丹さんに着てもらいました。



今さらながら製作過程を紹介。

仮布で試作。袖が変なので修正。


本番布に型紙を写す。

胸の布。ミシンで縫って……


縮め、レースをつける。


身頃にもレースをつける。


結合。


袖にレースをつける。

袖を身頃につける。ここは手縫い。




見よ、本気の本返し縫い。

本返し縫いの裏側。


わきを縫って、上半身完成。


2015年11月16日月曜日

風立ちぬ

2年前に観て感想を書いたんだけど、そういえばブログには貼り付けていなかったので、いまさらながら。

・全体 

零戦設計者の堀越二郎と、彼を主人公にした物語「風立ちぬ」を執筆した堀辰雄、二人のキャラクターを混ぜ合わせ、ジブリらしく料理した架空の人物が主人公「堀越二郎」。彼が零戦を生み出すまでの半生をファンタジー色豊かに描き出した映画『風立ちぬ』。 
ネット評では賛否両論なのであまり期待をしないで観に行ったが、予想を遥かに上回る良作だった。超泣いた。 
前に書いた我的ジブリランキングに当て嵌めると 


神作 ラピュタ 豚 トトロ 魔女宅 
良作 風立ちぬ←new! ナウシカ 耳すま 千と千尋 もののけ 
凡作 狸 火垂る ポニョ ハウル 
駄作 アリエッティ ゲド 


このへん。 ハウル→ポニョ→アリエッティと観てきて、「もうジブリは観なくていいや」とガッカリしていたところへ、最後の最後に素晴らしい映画をつくってくれたよ宮崎監督。 
懐古廚と誹られるかもしれないが、昔のジブリ映画はエンターテイメントに徹してて、すごくおもしろかったんだよね。それがもののけ以降、どうも説教臭くなったというか……それでも千尋までは好きだったんだけど、ハウルやポニョは「難解なものほど崇高な芸術(どやっ)」みたいな自己陶酔を感じてしまって、私には向かなかった。 それが、今回の『風立ちぬ』はかつてのジブリを思わせるエンターテイメント作品で本当に面白かった。雰囲気的には『紅の豚』に近いかな。「戦争」「戦闘機」「男のロマン」という共通点以上に似ている気がした。 あと「制作スタッフが楽しんで作っている」という姿勢を感じてすごく気持ち良かった。客を楽しませつつ、かといって自己陶酔に陥って客に感動を押し付けることはせず、誠実に「良い作品」を作っている感じがした。 


・映像

 
安定の宮崎作品だった。とても美しかった。映画館で観る価値有り。 遠景や水の流れがすごくキレイ。立体感のあるカメラワークも素晴らしい。 
この作品は現実の合間にちょいちょい二郎の夢が差し挟まる構成なのだが、その描き分けが良かった。「耳すま」ほど露骨ではないけども、ちょっとメルヘンチックというか、パッと見現実世界の風景と変わらないんだけどもそこはかとなく不条理で、不気味なような心地良いような。 
その不条理的表現は夢の世界だけではなくて、例えば関東大震災の描写にも用いられていた。コミカルな描写がかえって凄みを増し、精神的にクる画だった。客観的事実と二郎の想像を描き分けていると言うより、全編通して「二郎の主観的映像」と捉えるべきか。私は大震災を経験していないけれども、実際遭遇したらあんな感じで「現実とは思えない不条理な映像」として記憶するかもしれない。 


二郎は幼少期から成人に至るまでずっとイケメンで、ヒロイン菜穂子は可憐な美人に見えたので、結局私はジブリ絵が大好きなんだろう。 


・音声

 エンディングテーマ「ひこうき雲」は良かった。CMでも流れていて、「昔のユーミンの歌かー」なんて思いながら聞き流してたけど、映画の最後の最後にこの曲が流れてきたときはもう滂沱の涙だった。 

あと以前から話題になっていた、飛行機等の効果音を肉声を加工することで表現するという演出。「奇をてらってるだけ」という批判もあるが、私は大正解だったと思う。 汽車とか小川のせせらぎとか現存する「音」ならまだしも、旧日本軍の戦闘機、関東大震災の地鳴り、そういうものは録音できない。でも人の心の中にその音のデータが残ってる。だからそれを人が再生する。 写実性は大して追求していない。それよりも 「もーすごかったんだから!ヴーーーーーって近づいてきたと思ったらバアンっ!ていってドバババババっ!てなって大変だったんだよ!」 みたいな人の主観を大事にしている。だから「本物」よりも精神的にクる。 試作機のテスト飛行のシーンなんかすごく興奮したし、関東大震災の地鳴りや火事が迫ってくるときのおどろおどろしさは人の声ならでは。 


・声優庵野 

「あのエヴァの監督を主人公の声優に大抜擢!!」なんて前評判はあったが、それはそれは酷いもんだった。まあ老宮崎駿が「彼がいい!」って言うんだから、その最悪の演技も含めて『風立ちぬ』という作品なんだろうが……。 演技過剰なイケメンボイスが二郎のイメージに合わない、だから既存の声優は使いたくない、という気持ちはわからんでもないけどさ。 ちゃんとそういうオーダー出せば声優だって対応してくれるよ。だってプロなんだし。 宮崎駿は知らないだろうけど、今時の声優の幅広い演技っていうのは本当にすごいよ。庵野にしちゃったのはすごくもったいなかったと思う。 
またヒロインとのラブラブちゅっちゅシーンがさぁ……切なくて泣けるシーンなんだろうが、スタジオで若手女優に「大好きだ」「キレイだよ」と吐息混じりに囁く庵野を想像してしまってもう気持ち悪いってレベルじゃなかった(笑)


・ストーリー


ネット評では「難しい」「説明不足」という意見が多かったけど、私はそうは思わなかった。すごく筋のはっきりした良い作品だと思う。 まあただ、子どもには難しいかもね。それこそ「紅の豚」的な難しさというか。 ポニョやハウルの方がよっぽど難解だと思う。 
私は零戦をはじめ戦闘機のことはほとんど知らないし、戦争に関することも一般常識レベルの知識すら持っていない。 それでもこの作品は面白かった。もちろんちゃんと勉強して観に行けばさらに面白さがわかるだろうし、その道のマニアにはこの作品のあまりにも緻密、むしろ偏執的な考証に鳥肌が立つらしいのだが。 

伝説の「零戦」を開発した男のことだからさだめし「鬼畜米英!」「お国のために最高の飛行機を開発してやる!」というキャラかと思いきや全く違う。実際はどうだったか知らないけど、映画の「堀越二郎」はそうではなかった。 

ただただ純粋に自分の求める「美しい飛行機」を作り出すことに執着し、自分の全てを賭けるまさにエンジニア。技術屋や科学者特有の武士道とエゴイズムに胸を打たれる。 


また脇を固めるサブキャラがいいよね。天才堀越二郎の周囲には厳しくも理解ある上司、大学時代からの朋友でありライバルでもある同僚、そして二郎を慕い、二郎同様熱い志を持つ部下たちがいて、チームで零戦開発が実現した。ええ話や。 
またロマンとロマンスの力配分が絶妙だった。『風立ちぬ』は他のジブリ作品と違って、男女のラブイチャちゅっちゅを包み隠さず描いているのだが、なんというか……男女が出会い、信頼関係を育み、慈しみ労り合う夫婦になるという過程が丁寧に丁寧に描かれていたものだから、嫌味に感じなかった。二郎の飛行機に賭ける情熱とヒロイン菜穂子への愛情が、お互い邪魔する事無くいい感じに作用し合ってて、脚本上手いなぁと思った。


ラストの、数多の戦闘機が天に召されるシーンは「紅の豚」を彷彿とさせた。
カプローニの「君の十年はどうだった?」というセリフで泣いた。

2015年11月12日木曜日

思い出のマーニー2

思い出のマーニー、ここで散々こき下ろしたんだけど、原作(岩波版)読んでDVDでもう一回見直したら、なんかそんなに悪くなかった。
原作がとても良かったので、映画と比較するためにもう一回見たら、映画もそんなにダメじゃなかった。

原作はとても良い。
映画は映画で悪くない。

そういう感じ。

以下脈絡なく二度目の感想。

1. 
一度目の鑑賞では、とにかく主人公杏奈に感情移入できなかったのがつらかった。「杏奈が何者なのか」「マーニーはいつ出るのか」といった雑念が、主人公への共感を阻害していた。
映画に肯定的見方をするようになった今でも、杏奈の正体を最後まで秘匿したのはうまい手ではなかったと思う。一応、

大岩さん「あなたが来た時、頼子はとても喜んだのよ」→施設から引き取られた?
杏奈「私を置いていった両親や祖母を許さない」→なぜ急に祖母に言及した?

という布石はあったのだが、かといって杏奈が施設にいたとは限らないし、両親の死後祖母の手で育てられたとは限らない。原作ではアンナの経緯は初めの方で過不足なく示されていたので、この改変の意図はわからない。

両親死亡→祖母死亡→施設入所→佐々木家へ
という杏奈の経緯を踏まえた上での二度目の視聴では、杏奈の孤独や苦しみに胸が痛くなった。
「マーニーはまだか?マーニーはまだか?」と思って観ていた一度目と違って、落ちついて鑑賞できたのも、杏奈への感情移入を助けたと思う。

例えば最初の視聴では「ふとっちょブタ!」のシーンの意味が分からず、杏奈の性格が悪いとかいじけてるとか以前に、どうして突発的にあんな悪態をついたのか理解できなかったのだが、二度目の視聴であの一連の流れに納得できた。
うん、そりゃ「ふとっちょブタ」って言うわ。もちろんのぶ子はいい子だよ。すごく親切だし、大人だ。でも踏まなくていい地雷を踏んだのはのぶ子。

2. 
原作ののぶ子(サンドラ)はもっとダイレクトに意地悪だ。というか、原作はアンナものぶ子も映画より年少で、のぶ子は意地悪というより幼稚な感じ。のぶ子を「幼稚な子ども」ではなく「おせっかいおばさん」風に描いた意図はわからないが、この改変は面白い。

そういえば、のぶ子は七夕祭りのシーンが初出かと思ったけど、結構最初の方から出てるのね。杏奈が養母にハガキを出すシーンや、地域美化活動のシーンにもいる。初見時はふつうのおばさんかと思った。
のぶ子の母親がクレームに来たとき、「カッターをチラつかせて云々」って言ってたのが何のことかわからなかったが、あれは土手でスケッチ中に鉛筆を削る杏奈を、のぶ子が見てたからなんだな。

のぶ子で思い出したけど、杏奈の目が青いことを指摘するシーンは、杏奈に外人の血が入っている、後に登場するマーニーと血のつながりがあることの伏線だったのね
なんか、アニメだから目が青いと言われてもピンと来なかったんだよな。
ジブリは他のアニメと違ってあまり奇抜な髪色や瞳のキャラはいないけど、それでも「風立ちぬ」のヒロインは深い青色の髪だったし、あんまりキャラの髪や瞳をリアルな人体として捉える習慣がなくてさ。
気をつけて見てみると、「思い出のマーニー」で目が青い日本人は杏奈だけなのね。それに、のぶ子が言うように、杏奈の瞳はすごくキレイ。かなり意識して描かれているように思える。

3. 
映画「思い出のマーニー」はキャラの表情の描き方が秀逸だと思う。
私はラピュタとかトトロみたいな、キャラクターが走り回り空を飛び、感情のアップダウンが激しい作品の方が好みなのだが、「思い出のマーニー」のように、ほとんど動かない画の中で、少し目を細めたり、眉を寄せたりでキャラの感情を豊かに描写する作品も悪くないなぁ、と思った。

4. 
最初の視聴では、杏奈在宅中に医師に杏奈の相談をする養母がバカに見えて仕方なかったんだけれども、そこさえ目を瞑れば、愛情深い良いお母さんだと思う。

医師への相談シーンで、「あの子、ふつうの顔なんです。」ってセリフの意味が分からなかったんだけど、あれは原作中のキーワードだったんだな。

原作ではアンナが周囲から浮かないように、他人に気づかれないように、他人に踏み込まれないようにするための技が“ふつうの顔”。文中では
「アンナは“ふつうの顔”をしました。」
というように用いられる。
原文では ”put on the ordinary face” らしい。直訳すると
「アンナは“ふつうの顔”をかぶりました。」
かな。

でもこれはアンナ主体の表現なので、他人である養母が、杏奈のかぶった“ふつうの顔”を指して「ふつうの顔」と呼ぶのはおかしい。
原作で養母は“ふつうの顔”をかぶったアンナを「無表情」と表現しているので、映画でも「あの子、無表情なんです」にすべきだったのでは。
「ふつうの顔」より「無表情」の方が、より事態の深刻さが医師に伝わると思うのだが。
最初に映画を見たときは、そのシーンで「ふつうの顔の何が問題なんだ?異常な顔より良くね?」と思ってしまった。

5. 
「ふつうの顔」で思い出したけど、映画は「ふつうの顔」の描き方が良かった。「表情の描き方が秀逸」と前述したけれども、「ふつうの顔」もその一つ。
一度目の視聴では全部不機嫌そうに見えたんだけど、もう一度じっくり見ると、杏奈が「ふつうの顔」をかぶってるつもりで漏れ出ている様々な表情が、繊細に描かれていることがわかった。
無表情を装ってるし、「うるさいヤギ」だの「ふとっちょブタ」だの「そんな私が一番嫌い」だの全方位に攻撃的だけれども、本質的には好奇心旺盛で、明るい子なんだよな。逆に、本来他人に興味津々で、他人と繋がることを幸せと感じる女の子が、“ふつうの顔”をかぶり他人を拒絶することでしか我が身を守ることが出来なくなった(かぶっても守れてないけど)というのが、せつない。

6. 
一度目の視聴で、なんでのぶ子には警戒心丸出しだった杏奈がマーニーには早々に心を開いたのか理解できなかったんだけど、これも二度目の視聴で納得できた。

のぶ子はブサイクでマーニーはかわいいからや。

もちろん、のぶ子とマーニーの違いは他にもある。
行きたくもない七夕祭りで行動を共にしたブスと、自ら望んで赴いたしめっち屋敷から飛び出してきた美人。
単なる近所のブスと、何故か既視感を覚え、心囚われるしめっち屋敷に住む美人。
沢山の友達がいるブスと、ひとりぼっちの美人。
出会い頭に助けてくれた美人と、特にそういったイベントもなくふつうに出会ったブス。

そりゃマーニーと友達になりたいわ。老若男女、誰だってそう思うわ。

のぶ子がマーニー並の美人でも、杏奈は拒絶したとは思う。でもマーニーの容姿がのぶ子だったら、あんな風に心を開くことはなかったんじゃなかろうか。

7. 
一度目の視聴で、出会って早々「永久に秘密よ♡」と盛り上がっていたのが「え〜、もうそんなにラブラブなの?」とついて行けなかったんだけど、二度目の視聴で少し理解できた。

原作ではアンナがしめっちに来てからマーニーと出会うまで時間がかかる。その間、アンナは毎日毎日しめっちで一人遊びをしていて、しめっち屋敷を眺めては空想に耽っていたわけだ。
で、マーニーと初めて会ったときに、「あなたをいつも見ていた。あなたは私にとって素敵な秘密だった。だからこれからもお互いに秘密の友達でいよう。」と持ちかけられる。アンナもしめっち屋敷に対する憧憬や空想はアンナだけの秘密にしていたから、マーニーが同じ気持ちであることを知って嬉しかったんだよね。自分が毎日毎日しめっち屋敷を見つめていたのと同様、マーニーも毎日毎日自分を見てくれていた。
あと原作のアンナは小学3,4年生くらいで、「秘密」が大好きな年頃だ。
だから出会って早々「二人の関係は秘密にしよう」という話になるのはとても自然だと思った。微笑ましい。

ところが映画では、マーニーは「いつもあなたを見ていた」と言うものの、杏奈はしめっちに来てからせいぜい23日だ。それに中学一年生ならもう「秘密」でキャッキャする年頃でもなかろう。腑に落ちない。

でも二度目の視聴で気づいたんだけど、マーニーは「バレたらメチャクチャにされる、だから秘密にしよう」と言っているんだよね。

マーニーが何者なのか、幽霊なのか、妄想なのか、タイムトラベルなのか、いろんな説があり、どの説をとっても矛盾の出る描写が作中に出てきたりして、作品としても「ご想像にお任せします」というスタンスなのだが、私はタイムトラベルだと思っている。
タイムトラベルというか、アンナが過去に行ったりマーニーが未来に来ているわけじゃないんだけど、マーニーは「当時のマーニー」という感じ。
つまり、「老マーニーが少女の姿に化けて出た幽霊」ではなくて。
アンナが物心のつかない頃に老マーニーから聞かされた思い出話に自分の願望をブレンドした妄想」でもなくて。
マーニーは当時しめっち屋敷に住んでいた少女マーニーで、自分が将来和彦と結婚することも、夫や娘に先立たれることも知らない。
アンナの願望や妄想が多少干渉しているかもしれないが、基本的にはアンナが創出したものではない、アンナからは独立した存在。
まあ、あまり深く言及するのも野暮だけれども、幽霊や妄想ではなく、マーニーはマーニーである方がおもしろい。私にとっては。

で、話を「秘密」に戻すと、マーニーはその頃屋敷の使用人から虐待されていたんだよね。だから友達のことを知られたら会えなくなるかもしれない。原作の方では、マーニーは「村の子どもと遊んではいけない」と言われている描写があるので、映画もそうなのかも。

マーニーの言う「バレたらメチャクチャにされる、だから秘密にしよう」はマーニーにとってはかなり現実的な問題だったわけだ。
で、金髪の美少女に「秘密よ、永久に。」なんて迫られたら、小学生中学生関係なく、なんなら三十路の私ですら「秘密よ、永久に!」と応えるよ。うん。杏奈の気持ちがわかった。

8. 
マーニーとの最初の邂逅の後杏奈は自宅に戻るのだが、この辺りの浴衣を使った心象描写がすごいなぁと思った。
のぶ子母が大岩家にクレームを付けているシーンでは、杏奈は汚してしまった浴衣の裾をすごく気にしている。そりゃ浴衣で満潮のしめっちに突入し、ボートまで漕いだら汚れるわ。
で、のぶ子と諍いを起こしたせいで大岩さんに迷惑をかけたこと、大岩さんの娘さんのものである大切な浴衣を泥まみれにしてしまったこと、そういうのがいっしょくたになって杏奈は苦しむんだけど、次の日の朝には浴衣がキレイに洗濯されて干されてるんだよな。それを見上げる杏奈。よかったなお前……のぶ子母に何を言われても大岩さんは杏奈をありのまま受け止めてくれたし、浴衣はシミ一つ残さず復活した。大岩さん神。

9. 
そしてその夜、杏奈はマーニーと二度目の邂逅を果たす。
最初の山場は、マーニーに「大岩さん」の質問をされたことで、マーニーが(マーニーにとっては杏奈が)消えてしまうシーン。
原作にも同じシーンがあったが、よくわからない。大岩さん(現実)とマーニー(幻想)は表裏一体で、同時に存在することは出来ない、というありがちな解釈で良いんかな?札幌に住んでいたことも、釧路に来た経緯も、彼女のわだかまりの根幹にある「養母が養育費を受給している」ことも覚えているのに、「大岩さん」だけがすっぽり抜けている。サブキャラ大岩さんがヒロインマーニーと対をなしている、というのはどうにも納得がいかない。

まあでも、夢ってそういうものだよね。
私はときどき大学時代の夢を見るけど、そんな感じだ。
なんか、ものすごい長い間授業に出てなくて、それで単位が足りなくて、ヤバいよヤバいよって夢なんだけど。でもなんで授業に出なくなったのか思い出せない。

そりゃ卒業して10年近いんだから、「最近授業に出た覚えがない」のも当たり前だよな。でも夢の中では卒業したことも、就職したことも、ついでに結婚して三十路のおばさんであることも覚えてない。なのに「最近授業に出ていない」ことは覚えてる。
別に大学で単位を落としたトラウマがあるわけでもないし、結婚生活に倦んであの頃に戻りたいとか思ってるわけでもない。

だから杏奈にとって、現実のメタファーが「大岩さん」であることも、養母とのわだかまりなどを凌駕するほどの重要性があるからではなく、ただたまたまそうなっただけなんだろうな。わからんけど。

10.
マーニー(杏奈)は消えたもののすぐに再会し、しめっち屋敷のパーティーに潜入する。そこでなんやかやあったあと、杏奈は気絶した状態で近所の人に発見される。

その後の展開が原作と映画ではだいぶ違う。

原作は、パーティーのあとも二人は毎日遊び、風車(サイロ)の事件を経て二人は別れ、そしてマーニーとの日々が「思い出」になってしまったあとにプリシラ(さやか)と出会う。
映画は、パーティー以来杏奈はマーニーに会えず、その期間にさやかと出会う。その後突然現れたマーニーとサイロに行き、そして別れる。

原作はわかりやすい。アンナにとってマーニーは、多少不思議なところはあっても、まぎれもない「現実の人間」だった。しかしマーニーと別れた後では、マーニーとの日々が確かなものであったことを示す証拠は何もなくて、アンナ自身マーニーとの記憶も薄れてきて、いつしか「マーニーは私の空想だったのだ」と述懐するようになる。そこへ「現実の人間」であるところのプリシラ(さやか)に「マーニーの日記」を突きつけられるところがカタルシスなんだな。

映画ではマーニーとの蜜月の最中にさやかと出会い、「あれは私の空想だ」と述懐し、日記も読み、でもマーニーとサイロに行って、「空想」であるところのマーニーに激怒するから、杏奈のスタンスがわからんのよな。杏奈はマーニーを現実の人間だと思っているのか、それとも空想の産物のつもりなのか。

二度目の鑑賞でわかったのは、杏奈はパーティーのあと一旦マーニーと別れたつもりになっているんだな。
気絶した状態で大岩家に運び込まれ、翌日ズックは見つけたもののマーニー本人には会えず、そのまま大岩家で平和な日々を送っているうちに、大岩家の生活と表裏をなすマーニーのことを忘れ、その後「マーニーを忘れていた」ことを思い出すも天候不良が続き、そうこうしているうちに一週間経ってしまった。
もう二度とマーニーには会えないだろう。彼女は私の空想の産物だったのだ。
そこでさやかに出会い、マーニーの日記を読む。

だから「マーニーと別れ、然るのちにプリシラ(さやか)と出会う」という構造は原作も映画も同じようだ。

ある程度時間をかけて、自身で消化した上で「マーニーは空想である」とした原作アンナより、本心では「会いたい、会いたい」と思っていながらも、薄々感じていた「マーニーは空想である」という現実を自身に突きつける映画杏奈の方が痛々しい。

ところが、プリシラ(さやか)との出会いの後は一切マーニーと会えない原作と違い、映画では突然マーニーが出現する。そして杏奈はマーニーに「私の家に来て」と言う。

初見時はセリフの意味が分からなかったけど、杏奈はマーニーが現実か空想か確かめたかったんだね。もっと言えば、杏奈はマーニーに現実であって欲しかった。口では空想と言っていても、同時代の人間とは思えない「日記」がすでにさやかのものとなっている部屋から発見されても、マーニーが(表裏の存在である)大岩家に来てくれたら、マーニーが現実であることを証明できる。このシーンの杏奈の必死さがせつない。

話はそれるが、マーニーと会えない空白の一週間の途中で、杏奈はマーニーの形見であるヘアピンをつけ始めるのね。
映画の最初からではなく、このタイミングでヘアピンを出したことに、なんか演出上の意図はあるんだろうか。それとも、画がここまで出来た段階で、ヘアピンをキーアイテムにすることを思いついたとか?まさかそれはないよな。

話を「私の部屋に来て」に戻す。
杏奈の必死の懇願にも関わらず、マーニーは拒絶する。
私は前述のように「マーニーは当時のマーニー」だと思ってるんだけど、このシーンは幽霊っぽいね。あるいは杏奈の妄想か。初見では途中まで「サイロで死んだ女の子の地縛霊」かと思ってたよ。

ともあれ、杏奈の中ではこれでマーニーが現実の人間である望みはほぼなくなった。
でも、それでもいいや。だってこうやってもう一度会えたんだから。マーニーが何者でもかまわない。一緒にいてさえくれれば。

11.
それで
杏奈「私の養母、裏で金を受け取ってるの。」
マーニー「かわいそう!」
マーニー「私使用人に虐待されてるの。」
杏奈「かわいそう!」
杏奈&マーニー「私たち入れ替わっちゃったみたい☆」
の一連のやり取りのあと、サイロへ。

このあたり、映画はかなり駆け足だと思う。原作では
1. 初めての出会い
2. ボート漕ぎ練習
2. 三つの質問
2. パーティー
3. アンナの告白(養育費)
3. マーニーの告白(虐待)
3. 風車(サイロ)
はそれぞれ全部別の日に行われたことだが、映画では各項目の数字が同じ日の出来事としてまとめられている。

映画では尺の都合があるのだろうが、一日の出来事を表現するのに一日かかるわけじゃないんだから、二人の仲が時間をかけて熟成する様を上手いこと尺の中で描いて欲しかった。
特に杏奈告白→マーニー告白→サイロ突入を一日の出来事としてまとめてしまったのは乱暴すぎやしないか。
お互い誰にも打ち明けられなかった秘密を共有し、堅い信頼で結ばれるのと、その信頼が粉々に打ち砕かれるサイロの事件が同じ日っていうのは、急転直下過ぎてついていけない。

だから初見時は、「たかだか三回会ったくらいで、もう好きだの愛してるの、激情家やのう」「神出鬼没のマーニーが消えたくらいでなんでぶち切れるんや、情緒不安定やのう」と思ってしまった。

原作は映画よりもマーニーに現実感があるので、そりゃ風車(サイロ)に置き去りにされたらアンナは怒るよな、と思えるのだが。

一応映画の方では、マーニーに置き去りにされたことを、母や祖母に先立たれたトラウマと重ねて描いていたのだけれども、ここの杏奈の怒りについては二度目鑑賞後の現在も、いまいち腑に落ちない。

12. 
ただ一度目の鑑賞よりは杏奈に感情移入できていたので、
杏奈「許さん!」
マーニー「許して!」
杏奈「じゃあ許す!」
のくだりは理解できたと思う。
初見では、
「一瞬で許しやがった!」
「今のマーニーの弁明のどの辺で許す気になったんだ?」
「尺か?尺が足りないからか?ご都合主義もいい加減にしろ。」
と思ったんだけど、許すとか許さないとかどうでもよかったんだな。

杏奈が置き去りにされて傷ついたのは、本当はマーニーも自分を愛していないのかもしれない、と思ったから。

私を置き去りにした両親や祖母は、本当は私を愛していなかったのかもしれない。
学校ではみんな「魔法の輪」の中にいて、私は外にいるしかない。これに関しては、誰にも愛されていないのは確実。
唯一見返りなしの愛情を注いでくれていると信じていた養母は、実は私に隠れて裏金を受け取っていた。

でもマーニーだけは愛してくれていると思ったのに。
マーニーさえ私を愛してくれたなら、私は私の存在を信じられるのに。
やっぱり私は誰にも愛されないのか。
やっぱり私の存在は無意味なのか。
本当に?本当に私は無意味なの?本当にマーニーは私を愛していないの?お願いマーニー、私を愛していると言って。

そういうことなのだと思う。
つまり、杏奈はマーニーに「許さん」宣言をするために会いに行ったんじゃないんだよな。「裏切った!」「アンタはひどい人間だ!」と罵声を浴びせることが目的だったわけでもない。
「マーニーが私を愛している」ことを確認したかったんだよな。
それに対してマーニーは
・そんなつもりじゃなかった
・あの時あなたはそこにいなかった
・お願い許して
と答えた。杏奈を置き去りにしたことの言い訳にはあんまりなっていないが、杏奈はマーニーの言葉だけでなく、必死の形相、施錠された窓を鈍器で殴ってこじ開けてまで杏奈と言葉を交わそうとしたこと、そういうことから、「マーニーは私を愛している」ことを確認できた。
「あの時あなたはいなかった」ってどういうことだよとか、和彦って何なんだよとか、そういう細かいことは杏奈にとってはどうでもいい。
そしてマーニーがどこかへ行ってしまう前に、「私もマーニーを愛している」ことを伝えることが出来た。

杏奈「許さん!」
マーニー「許して!」
杏奈「じゃあ許す!」

のシーンは、そういうことだったんだな。

ちなみに原作ではこのシーン、アンナは夢の中ではなく現実に「しめっち屋敷」へ赴く。そしてマーニーを許したあと、嵐と満潮で荒れた海に飲まれ、死にかける。それを救出したのが十一じいさん(ワンタメニー)。
ほとんど動きのない画の中で、唯一映画的なイベントだったのだが、なんで「夢」にしちゃったんだろうね。

13. 
夢から覚め、体調も回復してきた杏奈は、憑き物が落ちたように丸くなっている。
初見では、
「『許して!』『許す!』のとってつけたクライマックスを経て、これまたとってつけたように主人公が成長したぞ!ビバご都合主義!」
と思ったけど、二度目の視聴のあとはとってつけたようには見えなかった。

前述の通り、「許して」「許す」のシーンで重要なのは、「杏奈がマーニーを許したこと」というよりは「杏奈がマーニーの愛を確認したこと」だと思うんだよな。
で、理屈で言えば杏奈はマーニーからの愛を確認しただけで、両親や祖母の愛も、養母の愛も、疑わしいままなんだけれども。
杏奈はマーニーに愛されることで、自身の存在を肯定することが出来たんだよな。
有り体に言えば、アイデンティティが確立ということか。

ふつう、アイデンティティの確立に関与するのは両親からの愛なのだが、かわいそうに杏奈は、その愛を認識する前に両親を亡くしてしまった。
マーニーおばあちゃんがセーフティネットとして機能するはずが、あえなく病死。
その後「親からの愛」を、杏奈は頼子から受け取っていたんだけれども、それが養育費の発見によって、杏奈が存在するための足場がガラガラと崩れ去ってしまったんだね

でも今回、マーニーの愛を確認し、自分の存在が肯定できたことで、両親の愛も、祖母の愛も、頼子の愛も、すべて肯定することができたんじゃなかろうか。
養育費とか細かいことはどうでもいい。だって頼子が杏奈を愛していることを、杏奈はもう知っているから。

それを踏まえて観ると、初見ではなんとも思わなかった「マーニー以外の話題で盛り上がる杏奈とさやか」「それを見て涙ぐむ頼子」「久子に頼子を『母』と紹介する杏奈」にグッときてしまった。


14.
原作も映画も、「思い出のマーニー」は「
孤独な少女が愛を見つけ、アイデンティティを確立する物語」だと思う。それを象徴するモチーフが、原作の「錨」。映画では「ヘアピン」になっていたが、原作ではマーニーの形見は「錨」なんだよね。


マーニーが思い出になってしまった後、しめっち屋敷の庭で、
アンナは「マーニーのボート」を見つける。マーニーと過ごしていた頃はピカピカの新品だったそれはボロボロだった。その中にはかつてマーニーが持っていた小さな銀色の錨が。ボロボロのサビサビだけど、アンナはそれがどうしても欲しくて、現在しめっち屋敷を所有するプリシラ(さやか)一家に無断で持っていってしまうんだよね。


マーニーと過ごした日々はアンナしか知らなくて、
そのアンナさえマーニーを忘れてしまうことを止められなくて、今では本当にあったことなのか自信がないし、いずれ思い出すこともなくなってしまう。だから、マーニーが存在したことの確たる証拠である錨が欲しかった。せつねえ。


また原作ではアンナの部屋にも錨の絵が掛けられており、
そこには「よきものをつかめ」という訓示が添えられている。その絵は、物語の随所でアンナの視界に入る。
アンナはマーニーとの出会いを通じて、人を愛すること、愛されることを知り、自分を確かな存在として肯定した。つまり、「よきものをつか」むことができたんだと思う。大海に頼りなく漂流する小舟だったアンナが、錨を得て、自分を在るべき場所に繋留することができるようになった。同時に、母港を得たことでどこへでも漕ぎ出せるようになった。


だから「錨」というキーアイテムは物語上不可欠だと思うんだが、
なんで映画は「ヘアピン」にしたんだろね?船を留めるのと髪を留めるのを掛けてるんかな?


15.
杏奈はよきものをつかんだからいいとして、
マーニーやその娘エミリの人生は原作も映画も不遇だなぁ。こう、さほど非業の死を遂げたというわけでもなく、冴えない人生の冴えない死に様ってのがなんとも。
特に杏奈の知るマーニーはキラキラしていて、喘息持ちの杏奈より余程健康的だったので、夫に死なれて病に臥し、娘に死なれてショック死したってのは、受け入れ難い。


映画ではマーニーが病気になってやむを得ず娘を全寮制の学校に入
れたということだけど、原作では戦争関連で娘を海外にやらざるを得なくなったとのことだった。海外ならともかく、病気ならたまに娘に会いに行くなり、娘がお見舞いに来るなり、できなかったものかね?映画では娘を6年間完全に放置してたらグレた、という描写だったけど、いくらなんでも不自然だよな。マーニーの自業自得としか思えん。


16.
釈然としないのは、
杏奈を原作の小学3, 4年生から中学生に変更した点。原作のアンナは小学生だからかわいかったのだが、同じ行動を中学生の杏奈がとっているのは違和感がある。
例えば、後先考えず浴衣でしめっちに突入し案の定ドロドロにするのも、小学生ならかわいいけど中学生だと頭弱い子に見える。いや、そうせざるを得ないくらい杏奈は追い詰められていたってことなんだろうが。

また養育費に関しても、小学生なら「私を引き取ったのは金目的かも」といじけてしまうのも仕方ないかもしれないが、中学生にもなってそれはちょっと。あと、お互い開けっぴろげに「大好き!」って言い合うのも、小学生なら微笑ましいんだけど、中学生だと不自然。

17.
私の「思い出のマーニー」ベストシーンは、
十一がしゃべってさやかが目を輝かすシーン。

あれ、完全に「トトロを見つめるメイちゃんの顔」だよな。






そんなわけで、我的ジブリランキング、更新しました。
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神作: ラピュタ 豚 トトロ 魔女宅
良作: 風立ちぬ ナウシカ 耳すま 千尋 もののけ
凡作: マーニー←new! 狸 火垂る ポニョ かぐや姫 ハウル
駄作: アリエッティ ゲド
同じカテゴリー内では左の方がより好きな作品。
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