2010年6月14日月曜日

告白


『告白』を観た。今回はなるべくネタバレしないように(保障はできない)、でも自分の感想を忘れないように、書くつもり。

映画の前に原作の方を読んだ。湊かなえ『告白』。全6章からなるうちの「第一章 聖職者」は小説推理新人賞を受賞したという彼女のデビュー作。残りの5つの章はその後別の場所で発表されたり単行本化のために書き下ろされたりしたものらしい。そのせいか第一章の完成度が半端ない。一見脈絡のない話が行ったり来たりしてるんだけど、後半に入るとそれらがどんどん結び付けられて、「そうきたか、そうきたか」と唸っているうちに衝撃のオチで「そーうーきーたーかー!!!」という感じ。それがこれだけ少ないページ数でまとめられているんだから本当にすごい。こういったケースでありがちなのが、「第一章だけにしとけばよかったのに…」という感じで続編がどんどん尻すぼみになったり、第一章では完璧な設定だったのが行き当たりばったりなものになってきたりというものなんだけど、『告白』に関しては残りの5章も素晴らしい。第一章の「その後」があらゆる視点から書かれ、そして最終章では第一章を上回る「そうきたか!」のオチ。各章の完成度も『告白』という小説を通しての完成度もすごい。

こういう感想は「正しくない」と思うんだけど、私は読んでて痛快だったし、読後感も爽やかだった。正しくないと思うのは、この小説が決して勧善懲悪のものではないし、誰も幸せにならないオチだから。でも私は第一章と最終章の語り手である「森口悠子」にものすごく共感してしまうんだな。自分の娘を殺した犯人に向かって、これ以上ない復讐を遂げる。殺すだけじゃ足りない、どうしたら相手を最も苦しめることができるか、という非生産的なことを延々と考え続け、最も的確かつシンプルな方法で復讐を成功させる。成功したところで娘は帰ってこない、自分の心が満たされるわけでもない、他の無関係な人も巻き添えにするかもしれない、それでも復讐せずにはいられなかったという「森口」の苦しさに胸が詰まった。だからこそ復讐が果たされたとき、「よくやった!」と(思っちゃいけないんだろうけど)思ってしまった。

各章で語り手が移り変わるという構成から、登場人物らが何一つ噛み合っていないことが浮き彫りになっていて、すごく興味深かった。そこらへん映画『バベル』とも通じるなー。
目にした「事実」は全員同じなのに、それが各々のフィルターを通して見るとここまで違うものになるのか、というね。それまでに積み上げてきた価値観とか、立場とか、今一番大切にしているもの、気がかりなこと、そういうフィルターでもって、「こうだったに違いない(こうあって欲しい)」という結論を下す。それぞれの解釈には全く矛盾がなくて筋が通っている。だからみんな「自分こそが正しい」と思い込み自己完結してしまう。そして相手のことをわかっている気になってしまう。そういう一人一人のズレが雪だるま式に膨れ上がって最悪の事態になったのを描いたのが『告白』なんだろうな、と思った。これはぞっとするほど現実感があるね。私も「あの人はこう考えてこうしたに違いない、バカだなー」と思ってしまうことが多いし、他の人に「君はこう考えてこれをしたんだろうし、その気持ちはよくわかるよ、でもね、」とてんで的外れなことを言われたりする。いやー怖い怖い。気をつけねば。

あとこの小説には大きく分けて3組の親子が出てくるんだけど、「母と子」の繋がりにのみクローズアップしていて父親の存在感があんまり無いんだよね。全然無いわけではないけど、母子の繋がりのドロドロに比べたら無きに等しい。最終的には子どもを奪われた「母親」が、どこかの母親の「子ども」を陥れるという話だもんなー。

さて映画の話。すごく良かった。原作に忠実でありながら映画ならではの手法でそれを表現するのが素晴らしいと思った。森口が語る「第一章」と「最終章」なんて絵的にはほとんど動きが無い上に物語としては最重要ポイントという、本当に映画化しにくいところだと思うんだけれど、見事な演出だったなー。第一章からもう泣いてしまったよ。欲を言えばAのマザコンっぷりをもうちょっと掘り下げて欲しかったかな。映画だと「Aが悪い」「Aの母も悪い」で終わっちゃう気がする。小説の方はAにもAの母にも同情せずにはいられないほど丁寧に描かれていたし、「Aが悪い」「Aの母も悪い」のは変わらないんだけどそこに一抹のやるせなさがあるっていうか。あと原作通りにする部分と映画のために改変するところがところどころ噛み合ってなかった気がする。まあでもある程度しょうがないか。

役者も素晴らしかった。松たか子すげえ!あと子役らの演技も光るね!R15指定の映画に15歳未満が出演しても良いのが不思議だけど。観るより演じる方がよっぽど「血」「暴力」「狂気」の影響を受けてしまうんではなかろうか。プログラム買って、今どきの子は美男美女が多いなあなんてバカなことを考えてしまったよ。そりゃこういう商売やってるんだから、垢も抜けるよね。一部の垢抜けない子は「垢抜けない」という役を与えられてるだけだし。その中でも主役級の二人はびっくりするほど素朴な感じだった。雰囲気は素朴だけど迫真の演技だった。もう一人女の子は文句なしの美少女で演技もすごかったので、きっとこれから売れるんだろうなと思った。

ネットとかでは木村佳乃演じる母親が「モンスターペアレント」と表現されてたけど、そうかなあ?過保護過干渉で学校や担任教師への要求が高いのはよくあることだと思うんだけどな。一応行動に筋は通ってるし。ただ小説読んでないとオチへの飛躍がありすぎるように感じるかもしれない。
「ウェルテル」うざいけど、ある意味一番かわいそう。まあ、ああいう金八かぶれの教師の被害を受ける生徒も世の中には少なからずいるのだから、自業自得っちゃそうだけどさ。

映画が小説よりも良かった点は、エイズへの間違った知識が多少修正されていたこと。たぶん湊かなえ自身が間違っていたと思うんだけど、ベストセラーになっちゃうと影響力を持つから心配だ。「父親がHIVに感染している場合、母親には感染していなくても赤ちゃんに感染している可能性がある」という誤解は映画でも直ってなかったなぁ。本当は妊婦がHIVに感染していない時点で赤ちゃんの感染はありえないんだけどね。ちなみに現代の産科医療技術ならたとえ妊婦がHIV陽性でも赤ちゃんに感染する可能性はかなり低く抑えられると思う。セックスでうつるんだから、お腹の中に丸ごといる赤ちゃんならなおさら感染しそう!という感覚はわからんでもないけど、エイズウィルスは胎盤を通らないから妊娠中はかえって感染しない。むしろ感染の危険があるのは出産の瞬間なんだけど、現代ではうまいこと帝王切開で取り上げるんじゃなかろうか。

そういうエイズの基本的な知識は中学生頃に学校やその他のメディアから得るもんだと思うんだけど。意外と年長者の方が疎いのかもしれんね。でもその湊かなえ自身ですら『告白』の中で、ケータイ小説かなんかのエイズをテーマにしたものがいかに間違っているかを説いていたから、意外とエイズに関する間違った知識は世に蔓延ってるのかもしれない。ケータイ小説は子どもが読むから心配だ。

2010年6月4日金曜日

風邪ひいた

今日マスクをしているのは風邪をラボのメンバーにうつさないための気遣いではなく、鼻が詰まっていて口呼吸を余儀なくされており常時口が半開きだから。
VPS