2013年2月9日土曜日

小学校の思い出3

I先生は授業中で発問をするとき、解答がわかった者は全員挙手するよう指示した。そして、挙手していない子から指名した。当然回答できないので、I先生はその子を教室の後ろに立たせた。 
挙手していない児童を概ね立たせたあとは、挙手している児童の中でも成績不良の者を指名した。挙手さえしていれば不正解でも立たされない場合もあるのだが、要するに正解できなさそうな子から指名していき、最後に着席常連組の誰かが満を持して正答するというのがいつもの授業だった。 

つまり立たされたくなければわからなくても挙手すればいいのである。 
自信満々であればあるほど、先生は指名を後回しにする。 
まして私は着席常連組。私が指されるのは最後の最後。その前に誰かが正答する確率が高い。

このシステムには正直だいぶ救われた。最後までわからないまま手を挙げて、誰かが正答してくれたおかげで助かったこともあったし、そこまでいかなくても手を挙げながら考えをまとめることはしょっちゅうだった。他の人の回答を参考に自分の案をブラッシュアップすることもできたし、誰かが不正解したことで間違いに気づき、自分が指されるまでに正答を捻り出すこともできた。で、結果的に私の優等生イメージが保たれるわけだ。 

やっぱりそういうところではI先生の指導力に疑問を持たざるを得ない。ゆっくり考えれば自ずと解答に辿り着ける子もいるのに、そういう子に考える時間を与えず片っ端から教室の後ろに立たせるというのはどうなんだろう。一人でも多くの子どもに授業内容を理解させる、ではなく、一人でも多くの子どもを立たせるのが目的だったとしか思えない。 

以前の日記で「I先生は贔屓をしなかった」と書いたが、そういう意味ではこれが贔屓かもしれない。成績不良の者より成績優良の者の方が考える時間を与えられるわけだから。 

でも私だってこのシステムにはフラストレーションを溜めていたよ。 
全員がそうとは言わないけど、小学生の頃って先生の問題がわかって、自分を指名してくれるように一生懸命手を挙げて、指名を勝ち取ったらみんなの前で答えを発表して、それで褒められて嬉しい気持ちになったり誇らしく思ったりするわけじゃん。私はそうやってみんなの前で先生に褒められるのが大好きだったし、だから小学校1年生から積極的に挙手して発言したわけよ。小学校の間に築かれた私の優等生イメージはその副産物と言えるかもしれない。 
しかしI先生が担任になった途端、当てられねえのなんのって。一生懸命挙手してるのに。それで他の人が正解してみんなに賞賛されると「私だってわかってたのに、私の方が先にわかったのに」と嫉妬を覚えた。 
I先生が私を指さないのはどうせ正答されると思っていたからで、それだけ優等生イメージが揺るぎないものだったということなのだが、私にとってはどうでもいいことだった。みんなの前で発表して褒められたいという幼い欲求が全く満たされなくなったのは、当初は結構負担だった。 

まあ数ヶ月もすればその不条理にも馴れて、授業は腕の筋トレだと思うようになったけどね。腕を耳につけてピンと手を挙げるのって、長時間やると結構キツいんだわ。成績優良者ほど長時間挙手されられるんだわ。 

Aちゃんが授業中に立たされた時、私は彼女の正直さに胸を打たれた。彼女ほどの優等生だったら挙手さえすればI先生は絶対指名しないのに、私だったら絶対挙手するのに、彼女はしなかった。 
その時私は当然挙手していたけれど、答えがわかっていたのかどうかも指されたかどうかも覚えていない。

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